こんにちは。
飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。
私の母は北九州の封建的な家で生まれ育ちました。そういうなにかと制約の多い環境で育った子どもは往々にして両極端な道を辿ることになります。すなわち、封建制が骨の髄まで染みついた立派な継承者になる道と、もしくは反対に、旧来のやり方に反逆するアマノジャクになる道です。
亡母の場合は、反逆児でした。殊更に、男尊女卑的な習慣に対してはムキになるところがありました。
あの昭和の時代に、エプロンなどは女性に家事を押しつける象徴である、などと言って、決してつけようとはしませんでしたし、女性の性に対するタブーについては容赦がありませんでした。例えば、母の故郷では月経中の女子を「穢れ」として、「しまい湯」(家族の中で最後にお風呂に入ること)に入らせる習慣があったそうですが、これも「非科学的で野蛮な風習」である、と一刀両断にして、自分の三人の娘を前にしていついかなる時も入浴するように、と厳命したものです(ここだけの話ですが、私を含め三人の娘は母のことを密かに「軍曹」と呼んでいました)。
そんな母のジェンダーセンシティブな薫陶(?)のせいか、社会に出てから特に、自分が女性であることを持て余し、女性であることの難しさを感じていた私は、自分を解放すべく、私なりのプチフェミ的な運動をしようと思いつきました。
どこからこのアイディアが出てきたのか今となっては思い出せませんが、とにかく私は生理用品を買うときにレジの人に「袋はいりません」と(高らかに)宣言するという運動をはじめたのです。
当時、生理用品を買うと、お店の人はビニールの手提げになった透明な袋の中に入れる前に、まず紙の袋に丁寧に入れて隠してくれるので、外からは何が入っているのか見えないような仕組みになっていました。
その習慣(生理用品を紙の袋にいれて見えないようにする)対して、「生理用品は隠さねばならないような恥ずかしいものではない」という母からのメッセージが聞こえたのかもしれません。
とにかく私は生理用品を買うときに「袋はいりません」というようになりました。そのうち「シールでいいです」と言ってむき出しのまま生理用品を手にもってお店を後にするようにもなりました。
こうして私の「ひとりムーブメント」とも呼んでいた運動は20年以上続いていたのですが、思いもよらない科学の進歩というか、お店側の工夫で終焉を迎えることになりました。
黒い(もしくは灰色の)、中身が見えないビニール手提げ袋の登場です。
今まではお店の人がガサガサとレジの下のほうから紙の袋をあさって出している間に、私は華麗に「袋はいりません」と言えていたのですが、この中身の見えない袋が登場してからはお店の人が「シュパ!」と袋を出すスピードのほうが速くて、なかなか「袋がいりません」を差し挟む余裕ってものがなくなってしまったのです。
そんなんで私のひとりムーブメントはなんとなく終わってしまいました。このちょっとしたチャレンジは最初のほうは勇気もいったけれど(この運動の初期、私は20代だったということを考えてもみてください)、いろいろ考えさせられる愉快な試みでもありました。
女性の性について、私なりに考えて行動してみた、とちょっぴり胸を張っていえるものになったのです。たとえ、それがなんかしらの成果を残さなかったとしても、です。
今、Me Tooの運動のような大きな運動から、ひとりではじめている小さな運動まで、さまざまな運動にさまざまな形で参加しているたくさんの女性たち(モチロン、男性たちも)を私は心から応援しています。
そうやって自分を表現したり、行動したりすることで、きっと自分に胸を張れるような気持ちになれますよ、と先輩面して言ってみたりしています。
●行動してみることでできることがあるよ:幼稚園の思い出☞【ハラが決まる】までの活動
ではまた!