こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

 

子どもの頃に虐待などの不適切な養育を受けることは、長期反復性のトラウマ体験にさらされることであり、そのような体験は大人になってから、身体的に、また心理的に多くの影響を与えることが明らかになっています。

その影響がいわゆる複雑性PTSD、と呼ばれるもので、トラウマ記憶に関連したPTSDの症状に悩まされることに加えて、自尊心の低下や、感情がなくなったように、または逆にコントロールが効かないような嵐のように感じたり、人との関係では常に不信感がつきまといます。

それらに悩む人はこう考えます。

「どうしてこうなったんだろう」

今自分が感じている苦痛の原因を過去に問いかけます。

そして悩んだ挙句、しばしば「なんでかわからないけど、自分が悪いからだ」という答えが出されます。

でもこの答えは、実は本当の答えではないので、また再び「なんでこうなったんだ」という問いが湧いてきて、過去はいつまでも過去にならず、このループから逃れることができません。

過去の(特に子どもの頃の)積み重なる辛い体験は、整理して答えを出すことが難しいものです。筋道立てて考えようとしても、その当時の複雑で苦痛なよくわからない感情にさえぎられてしまうし、その感情が引き金になって芋づる式に他の記憶までが思い起こされて収集がつかなくなったりします。また、子ども時代の記憶は、一つひとつは鮮明なのに、前後の脈絡が失われていたり、時間軸がバラバラになっていることもあります。その上、その出来事に関する子どもであるその時の限られた範囲の知識での理解が、記憶全体を客観的に検討するという作業を阻害していることもあります。

もう一つ見過ごせないことは、対人トラウマ(事故や自然災害とは違い、人との関係性の中での傷つき体験)では、相手の悪意の存在、もしくは不存在がクローズアップされがちになることかもしれません。

例えば、法律の世界では故意か過失かで刑の重さが相当違ってくるようですが、そういった考え方の影響を私たちも多分に受けているのでしょうか。

「親(加害者)には悪意がなかった(故意ではなかった)」だから「自分の今現在の症状や苦痛は自分のせいだ、もしくは自分の捉え方のせいだ」だから「相手を許さなくてはいけない」それなのに「相手への怒りを手放せない自分は悪い」という考え方のループに多くの人々がはまっています。

実際は、相手の意図とは関係なく、自分にとって害となるような結果に対して、怒りが出ることはごく自然なことです。電車で足を踏まれて、一瞬イラッとするのは当たり前なことではないでしょうか。でも、自然で当たり前の感情を「相手はわざとじゃないんだから、許さないといけない」もしくは「怒りを感じてはいけない。怒りを感じる私は器の小さい人間だ」みたいに押し込めると、それが醸されて恨みになるのです。

このようにして「自責感」というものは生まれます。自責感とは、感情のように偽装された言葉ですが、その実は自分を責めることで苦痛を与えている「考え」です。そしてそれは私たちを過去に閉じ込めて、回復に関して全く助けになってくれていません。

そこからどうやって抜け出せるのでしょうか。

その突破口の一つが、「もしかして相手にもなにか問題があったのかもしれない」という仮説です。

「毒になる親だったのかもしれない」

そう考えてみることで相手に対して怒りを感じることが許されるのです。

でも、こういっては何ですが、怒りという感情は回復への通過点の一つにすぎないものでもあります。

(また更に何ですが、『毒になる親』、私自身はこの本をきちんと通読はしていないのです。でもセッションの中では実に頻回に話題になる概念なので、ここでは理解の助けになるかと思って引用してみました)

一方で、怒りの気持ちを大事にしたいのは、それが、自分の持つ他の感情に気が付かせてくれるきっかけになることがあるからです。怒りもそうですが、恐怖や無力感、恥の気持ち、喪失感、そういった一つひとつの感情がトラウマ記憶の整理をしていくときに必要で、私たちの味方になってくれるのです。

 

ではまた!

●複雑性PTSDについて最初から☞【複雑性PTSD】診断がつく、ということは治療法があるということです

●トラウマ記憶の整理について ☞【過去をなかったことにする】すると未来もなくなる

 

サードプレイス

 

 

 

 

投稿: 飯田橋 サードプレイス

東京千代田区飯田橋にあるカウンセリングルーム、サードプレイスのブログです。

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