こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。


物心ついた頃から死が怖くて、両親に「死ぬとどうなるの」と質問しては「死ぬと何にもなくなるんだよ」という至極正論かもしれない、しかし、幼い娘の気持ちをスルーした答えが返ってくるたびに、死の恐怖に慄いている子どもでした。

小学校に入ると両親に放ったのと同様の質問をお友だちにぶつけては、気味悪がられるようになったので、しばし自分の中にある、死について話したいという衝動(怖いからこその衝動)は封印するしかありませんでした。

思春期に入って「メメント・モリ(死を思え)」という警句を知って、どうやらどこの世界や時代にも死について考える人がいるのだと知り、なるほどと思いましたが、メメント・モリという言葉には、どこか叱られているような雰囲気があって、ちゃんとメメント・モリできていなくてすいません、みたいな、正答をみつけられないデキの悪い生徒みたいな気持ちにもさせられたものです。



そんな中、結構なオトナになった私は、お寺のお坊さんが主催する「死の体験旅行®︎」というワークショップに参加したのでした。

新聞記事によると、このワークショップでは自分の死を体験する中で、自分の大切にしているものや人を手放していく、ということをするようです。参加者のインタビューでは「最後に夫が残るかと思ったけど、飼犬が残った」と言っている人がいたり、「自分にとって意外な結果となった」と話す人もいて、私には一体何が起きるのか、興味を持ったのでした。


さて、会場につきました。私を含めて12人くらいの老若男女とガイド役のお坊さんがいます。

「死の体験旅行®︎」では、自分が死に向かい、そして死んでいく、というプロセスの体験をします。



そのワークでは、自分が死に行く途中で、多くの物、人や記憶とお別れし、最後には全部とお別れしなければなりません。私はその体験の過程で生じる辛さと悲しさで、涙を流しました。どれもこれも手放したくないものだったのです。

しかしワークが終わって、お部屋にもどってくると、私は生きていて(当たり前ですが)、それらはなくなったりせずにちゃんと私の中にあることがわかりました。私は、自分の大切なものや人が今ここにきちんと在ることが改めて認められて、嬉しく、ほっとした気持ちになりました。

それは、「死を考えることは、生を考えることだ」という昔ながらのコトバがやさしく腑に落ちた瞬間でした。


トラウマの中で人々は恐怖と無力感を感じ、多くのもの、または、全てのものを失うような体験をします。セラピーの中でそれに向き合う時には、辛さ、怒りや悲しみとは無縁ではいられません。多くの人は涙や汗を流し、息も絶えだえになりそれに向き合いますが、全てのセッションを終えたあとは、なんだかさっぱりしたような穏やかなお顔をされています。




子どもの頃に感じていた死の恐怖というのは、私にとってトラウマだったのでしょう。そして、死の体験旅行という安全な「セラピー」によって、それに向き合うことができ、癒しがもたらされたのでした。


帰り道、涼しくなってきた夜風が私を優しく撫でるように吹いています。


良い夜でした。




ではまた!

投稿: 飯田橋 サードプレイス

東京千代田区飯田橋にあるカウンセリングルーム、サードプレイスのブログです。

コメントを残す