不明 のアバター

All posts by 飯田橋 サードプレイス

東京千代田区飯田橋にあるカウンセリングルーム、サードプレイスのブログです。

トラウマPE心理療法

【自然治癒に倣う】習慣が正しい、とは限らない件について

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマです。

 

転んで足のひざをすりむいたとき、どのように手当てをしていますか。

ちょっと前には「赤チン」というものがありましたね。

水道水で汚れなどを落としたあと、赤チンをつけることもあるし、他には青いキャップの消毒液をシュシュっとふりかけたりして、ガーゼなどを貼って傷口を保護、乾燥させたものです。

でも今は、消毒液をつけたり、傷口を乾燥させることはせず、そのまま傷口を保護するテープを貼ったり、ラップで覆ったりするとよい、ということが知られています。

「湿潤療法」と呼ぶらしいです。

実は、けがをしたとき、傷口では血小板や好中球、マクロファージが働いて、絶妙なタイミングで様々な「細胞成長因子」が分泌され、これにより細胞が活性化し傷が治る、というメカニズムがわかってきたのですね。

 

このように傷が自然に治るとはどういうことか、丁寧な観察や研究からわかってきたことで私たちの手当ての方法は変わってきました。

 

 

それでは心の傷とか、トラウマ、PTSDと呼ばれるものではどうでしょうか。

 

なにかとてもショックなことがあった時、それが自分にとって、または周りの人が受け止めきれなかったりするものであった場合に、しばしば治療者もふくめ、人はこのように言うかもしれません。

「すんだことは忘れなさい」

「いつまでも過去にとらわれるべきではない」

「前を向いて」

 

しかし、PTSDが自然治癒する経過についてはよく研究されていて、そのとき人は過去のショックな出来事について話したり、それについて再び考えたりすること、それをきちんと受け止めてもらえるサポートがあることが、その後の回復に促進的であると知られています。

トラウマについて、思い出したり、話したり、そこからの感情を避けないことや、「世界は危ないところだ」とか「自分は無力だ」といったトラウマからの考え方が、今も実際にそうなのか、腰を据えて考えていくことが、PTSDの回復のための要素であるらしいのです。

 

すなわち、過去のことは忘れなさい的助言とは逆のことが必要みたいです。

 

ではまた。

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トラウマ心理療法

【EMDR 個人的な体験、それから】個人的な体験からの普遍的な知識

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマミチです。

 

約10年前、EMDRのワークショップに参加し、そこで流れ出てしまった自分の涙を、同じ会場にいる上司にさとらせまいと、四苦八苦している私です。

●どうしてこんな状況になっているのか知りたい→こちらへ

 

上司は幸いなことに私の涙の決壊には気がついてはいないようでした。

というよりも普通に考えると、上司だってその時は患者役であれ、治療者役であれ、自分自身のロールプレイに集中していたのだと思います。

 

治療者役の先生は真剣な表情で指を左右に振って、その場にとどまるように優しく声がけをしてくれています。

 

その間、私は自分の内側は猛烈に、なんというか、足掻いている、という状態でしょうか。

私はトラウマとつながっている不快なイメージ(そしてそれが涙の原因だと私はニラんでいました)が頭の真ん中を占領してしまわないように、頭の中の引き出しの中をやたらにかきまわして、なにか他のもの、自分に必要な別のなにかを必死に探していました。

 

相変わらず、治療者役の先生は指を左右に振っています。そして患者役の私は涙を流しながらその指を目で追っています。

 

私は引き出しの中をひっかきまわしていましたが、なにを探しているのかは自分でもしかとはわかりません。それでも、あれでもないこれでもないと、引きずり出してはポイポイ投げちらかしています。

何回かつかんでは投げつかんでは投げ、をやっていた時、ふいに恩師の顔が浮かびました。私に初めてカウンセリングについて教えてくれた先生でした。

 

予想外の顔が出てきて、ほっとしたことと、嬉しさで一層涙があふれてきました。

ふと、こんなに涙を流して大丈夫なのか、という理性ともなんともつかない声がかすかに聞こえましたが、この涙は心地がよくて、それからの連想は止まりませんでした。

今までの人生のあちこちで出会い、私を支えてくれた人々のあたたかい顔が、ぽこんぽこんと浮かんできては、それらが木の実のようになりはじめました。いつの間にか私の頭の周りには枝が生え、葉も生い茂っていて、木の実はその間に心地良くぶら下がっています。

そうして足のほうは、木の根のように床にしっかりと根を張っているのを実にリアルに感じています(しつこいようですが、実際の私は椅子に座って治療者の指先を追っています)。

 

「治療」が終わって、講師の先生は穏やかに「ロールプレイでどんな体験をされましたか」と尋ねてくれました。治療者役の先生は幾分か疲れた顔をしています。多分、滂沱の涙を流す私を心配したに違いありません。

私はロールプレイの最中に起こっていたことを詳しく話し、それはとても面白くて楽しい体験だったと伝えました。先生たちはこの劇的ともいえる展開に一緒になって喜んで下さいました。

トラウマ?

私のトラウマはどこかに飛んで行ってしまいました。

 

 

この短い、時間にして15分も満たないトラウマの処理の体験の最中、きっかけはなんであれ、自分の内側から普段気がついていない(びっくりするような!)力が作用して、ポジティブなイメージが作り出されました。

このことから私は、人が本来的に持つ回復への志向性を直感的に知れたように思います。

 

 

そうして今はいろんなめぐりあわせで私はPEのセラピストとしてトラウマ治療に関わっています。

PEのセッションの中でも、人々は時に驚くような洞察力でトラウマを乗り越えていきます。それを繰り返し目の当たりにすることで、あのEMDRのワークショップの時に得た直観は実感になりました。

 

人にはトラウマから回復しようとする力が本来的に備わっているということです。

これに尽きます。

●市井先生(EMDRの権威)にPEについて伝えたい☞【PE】そのネーミングセンスがいかがなものか問題

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心理療法

【EMDR、極めて個人的な体験】涙が止まらない 

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマミチです。

私はPE(持続エクスポージャー療法)のセラピストですが、他のトラウマ焦点化心理療法である、CPT(認知処理療法)やEMDR(眼球運動による脱感作、および再処理法)、TF-CBT(トラウマフォーカスト認知行動療法)も等しく効果があると考えています。

ひとつにはそれらの心理療法の効果研究の結果によるものですが、もう一つには実際にそれらのワークショップ(その理論や方法を学ぶ正式な研修会)などに行って学んだときの個人的な感情的経験によるものが大きな割合を占めていると感じます。

 

はじめてトラウマ焦点化心理療法を学んだのは、10年以上前のこと、EMDRのワークショップでした。

当時日本ではCPTやTF-CBTは導入前でしたし、PEは導入直後くらい、まだ敷居が高かったので、比較的日本でも普及が進み、研修制度も整備されていたEMDRの世界にオジャマさせていただきました。

私と、当時の職場の先輩心理士や精神科医、そして大御所精神科医である上司がそろっての参加です。

休憩時間に職場の誰かが買ってきたチーズケーキなどを頂いたことを覚えています。

そんな和やかな雰囲気ではあったのですが、ワークショップでは治療の理論はもとより、参加者が患者役と治療者役となって実際のセッションのロールプレイの練習をするとあって、会場は真剣な空気にも包まれていました。

 

参加者はそれぞれ1グループ8名ぐらいのグループいくつかに分かれて、その中でまたペアを組んだ相手とロールプレイをするのです。

患者役になった人は練習用に自分の実際のトラウマを用意し、それを治療者役の人がマニュアルの手順に従って「治療」を行います。

その時に患者役が用意するトラウマは比較的小さいもの、例えばトラウマの強度を表す最大10の物差しがあったとしたら、2か3程度のものを選んでください、と事前に講師から指示を出されています。未解決の大きなトラウマなどを出してもワークショップのロールプレイではとても解決しきれないからです。

私がその時に選んだのは「小学4年生の時に宿題を忘れて担任の先生に無言でニラまれた」というプチトラウマでした。

EMDRの治療の手順は、すごくざっくりいうと、患者は治療者が左右に振る指先を交互に見つめながらトラウマのその時のイメージに留まる、ということを繰り返し行います(トラウマ的認知の同定やその程度についての話し合いやら、その前にも大切な治療過程があり、実際は指を左右に振る有名な過程は本当にごく一部なのですが、そこは割愛します)。

 

かくして私は治療者役が左右に振る指を交互に眺めながら、「小学4年生の時に宿題を忘れて担任の先生に無言にニラまれた」そのシーンのイメージと、その時の叱られたときに感じるような不快な感情に留まっていました。

そうすると不思議なことにそのシーンとは別の、でもどこかでつながっているであろう不快なイメージがふと頭の中に浮かびそうになりました。

あ、ちょっと嫌な予感がするな、という考えとも感覚ともつかない感じです。

隣のグループでは上司が患者役か治療者役か判然とはしませんが、ロールプレイをやっているのが見えます。

上司の足元にはティッシュの箱が置かれ、よく見ると会場のここかしこにティッシュの箱があります。

ロールプレイの最中に泣いてしまう人がいるんだろうな。

と考えた瞬間に私の目から涙が流れ出しました。

トラウマが思ったより深かったのでしょうか。歯医者さんで虫歯を実際開けてみると「思ったより深いとこまでいってますね」といわれるアレでしょうか。

そう考えて落ち着こうとしても涙が流れ落ちてきます。

涙を流して考える一方で私は猛烈に焦りはじめました。私がワークショップで泣くような不安定な人間だってことが上司にバレたらクビになってしまう、という考えが頭によぎったのです。

仕事を得ることはとても難しいことです。この仕事を失ったら(当時から割といい年であった)私にはなかなかすぐに次、というわけにはいきません。

私はこの時、自分の目を左右に揺らしながら、自分の人生をかけてこのプチ(と思ったけど違ったらしい)トラウマと取り組まないといけないとどこかで決意しました。

というより、ありていにいって、私が泣いていることを上司に気づかれないように、なんとか何事もなかった体に着地するすべを探していたのです。

 

EMDRのワークショップの中での私の苦闘(?)はここまでの時間にすればものの5分ほどだったと思われますが・・・。

●つづき☞【EMDR 個人的な体験、それから】個人的な体験からの普遍的な知識

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感情調整

【タイムアウト】感情のコントロールについて【いつものパターンになっていませんか?】

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマです。

 

「ほめて育てる」とは言いましたが、実際、子育てって難しいものです。

頭ではこうするといいよ(またはこうしてはいけないよ)というのが十分にわかっているのに、実際にはそうできないのは、私たちの個人的な感情によるものも大きいでしょう。

特に扱いが難しいのが怒りの感情です。

 

イヤイヤ期とかterrible two とか言われる2歳から3歳の子どもを前に、腹が立ってつい叱ってしまった、カッとなってつい叩いてしまった。その後、子どもの涙で泣きぬれた寝顔をみてごめんねと申し訳なさで自分も涙する・・・こういってはなんですが、育児雑誌にある投稿の一つのパターンではないでしょうか。

こういうことって子育てでよくあることだよね、と共有しあうことで私たちは少し安心して、より良い親になろうとまた努力することができます。

でももう少し真剣な話をすると、子どもを激しく叩いたり、怒鳴ったりすることで子どもの健やかな成長が妨げられることは今では様々な研究で明らかになっています(発達に関する身体的な問題や自尊心や自己肯定感の低さなどの心理的な問題、将来うつなどの精神疾患へのなりやすさなど数々の研究でそれが知られています)。

一方で私たちの親世代は子どもをきびしく「しつける」ことは当たり前でした。親の怒りは子どもに体罰という形をとることは珍しいことではありませんでした。それからすると、私たちは自分の子どもを育てる時に「親のやり方を見習う」ことはあまりいい方法ではないのかもしれません。

 

ここでは、「カッとなってつい手が出てしまう」といういつものパターンを変えてみる一つの方法として「タイムアウト」を紹介します。

「タイムアウト」は怒りの衝動からいつものパターンになりそうになったら、その場から離れて落ち着くのを待つ、というシンプルな方法です。その方法のポイントは「怒りは30分程度で山を越える」ということを知ることにあります。

例えば楽しい、という感情について想像してみてください。お笑い番組なんかを見ていてとっても楽しくて大笑いしていても、ある山を越えると「ふー、やれやれ」という状態になりますよね。楽しい気持ちもいつかは終わるもので、どんなに望んでもこのままずっと笑い続けることはできません(残念ながら)。

人間は一つの感情をいつまでも同じ強さで持ち続けてはいられないのです。

怒りも楽しいという感情と同様に、(腹が煮えくり返りつつも)静かにそれを観察していればその山は30分程度で収まります。収まった後で子どもに必要なこと:「着替えてお昼寝しようね」「お風呂にはいろうね」「おもちゃを棚にしまってね」と比較的落ち着いて伝えることができます(そうしてそれを子どもができたら具体的にほめる:「自分でお着換えできて偉いね!」ことができます!)。

 

そしてもう一つの「子どもの寝顔に謝る」パターン、を変えるのはもっと簡単かもしれません。

子どもが起き出して、いいご機嫌が戻ってきた時に、「さっきはあなたを叩いたりしてはいけなかったのにそうしてしまってごめんね」とストレートかつ丁寧に謝ることです。

罪悪感に浸っているより、きちんと謝るほうがずっとすっきりするものです。

 

このような実践を通して私たちは、子どもが生きていく上で大切なことを伝えることができます。

怒りの感情について、人や自分を傷つけることなく自分自身できちんとコントロールできるということと、過ちがあったときはストレートに認め、謝罪する、ということを教えることができます。

それは「人を叩いてはだめだよ」とか「悪いことしたら謝りなさい」と口でいうよりもずっと効果があるってことが想像できると思います。

 

 

世の中の、子どもとかかわるすべての大人たち(私も含め)を、心から応援しています。

 

ではまた。

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うつセルフケア

【焦りとセルフケア】とにかく「セルフケア推し」です

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマです。

 

うつ症状などからの回復には休息をとることが大切といわれています。

そのお休みが功を奏してエネルギーがたまってくると意欲、のようなものが出てきます。次に大事になってくるのは、この意欲のようなものを大事に育てることです。

 

うつが回復へ差しかかると、この意欲が焦りのような気持ちになって出てくることも多いようです。よくなってきて、回復に向かって一気に走り出したい気持ちになるのです。

そして以前のように働きはじめたり、たまった家事を一気に片づけたりして、また寝込んでしまうということがあります。そうして自分に失望したり、もう治らないんじゃないかと悲観してしまうのです。

 

このようにエネルギーや意欲がちょっとでてきた、というときに、自分を無理な(と自分ではなかなか気が付かないものですが)仕事に駆り立ててまた具合を悪くしてしまわずに、ぼちぼちと上手に回復の道をたどるには何が必要でしょうか。

 

焦りが出たときに慌てて仕事とはじめたりしてはいけない、むしろ「暇でなにかすることがないかなぁ」という気持ちになるまで待ちなさい、といわれていて、これは本当にいい表現、アドバイスだなぁと思うのですが、なかなかに難しくもあるのです。

日常生活の中で自分のエネルギーが十分にたまるまで(そして暇だなぁ、と思えるまで)じっと待っていることほど辛いことはありません。

人は「なにもしない」とか「なにも考えない」という課題が苦手です。「ピンクの象のことだけは思い浮かべないでくださいね!」といわれると、ついピンクの象がフワフワ浮かびだしてしまうアレです。

Human beingをもじってHuman doingと揶揄されるぐらい、私たちは「なにかしている」生き物で、またそれが自然な姿ともいえるのかもしれません(もちろん修行を積んだお坊さんのようにHuman beingを実践できている人もいます)。

まだ修行途中の、なにかせずにはいられない私たちの味方になってくれるのがセルフケアです。

適切に自分を休ませられるようなたくさんのセルフケアのアイディアを考えて、実践してみてください。

セルフケアは課題とかノルマではなく、遊びであることが大事です。それによって感情や考えのストレッチができますし、身体のストレッチは文字通りストレッチ、ですよね。

そして一つセルフケアを実践してみたら、「休めたかな、楽しかったかな、気分転換になったかな」とその効果を検証してみましょう。

よかったセルフケアをまた実行してその効果を確かめて、また実行する。この繰り返しが大切です。

休めている、そしてその休みの計画が自分で立てられて、実行できている。

それがまた自信の気持ちにもつながるのです。

 

「セルフケア推し」の今日の日記でした!

ではまた。

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