カテゴリー: トラウマ

トラウマ心理療法

【トラウマ記憶】いわゆるエピソード記憶との違い

こんにちは。

飯田橋にあるカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマです。

フォア先生は「トラウマ記憶とは怖い映画のようなものだ」といいましたが、そういう風に考えるといろいろ合点がいくことはあります。

怖い映画をみた後に、思い出したくないのに思い出してしまったり、そのせいで怖くて夜眠れなかったり、そんな状況は容易に想像できると思います。

この、思い出したくないのに勝手に記憶が蘇ったり、気が張って眠りが浅くなるような現象は、それぞれ侵入症状、過覚醒症状と呼ばれ、PTSDの症状の一つです。

ただ臨床の場面では「怖い映画」、というだけでは十分に説明のつかない部分はあります。トラウマ記憶では、その記憶がバラバラになってストーリーという形を成していなかったり、穴があったりすることも少なくはありません。

つまり、ちゃんと(こういう言い方も変ですが)「怖い映画」にさえなっていないのです。

これを説明しているのが英国の心理学者のBrewinで、彼によると、トラウマ記憶は言語的に接近できる記憶として保持されているのではなく、意識されず、状況に応じて接近できるものだそうです(いきなり難しくなった感は否めませんが、ちょっと辛抱してしばらくおつきあい下さい)。

Brewinのいう言語的に接近できる記憶、とはなんでしょうか。

それは「小学生の夏休みにおじいちゃんの家に行った時のこと」とか「12歳の誕生日の悲しい思い出」とか「●●の思い出」として語れる記憶です。これをエピソード記憶と呼んでいます。エピソード記憶はいわば心の引き出しにしまっておける記憶です。そして自分が思い出したいときには出して、いい気持ちを味わったり、時には苦い思いを味わいます。

Brewinのいうトラウマ記憶はそれとは違い、2歳以前の子どもの頃の記憶に似て非言語的なイメージや身体的な感覚で保存されているものに似ています。この頃の記憶の在り方を小児期健忘と呼んでいます。文字通り忘れてしまうけど、なんらかの加減で嗅覚だったり、身体感覚だったり、感覚の一部がふと戻ってきたりするような記憶のようなものです。

トラウマ記憶はエピソード記憶ではなくて、小児期健忘の時の記憶に似ているのですね。身体的感覚で保存されていることや、状況に応じてしか(その状況はほとんど自分ではコントロール不可能です)思い出すことができないなど、いわば無意識の領域に近いのかもしれません。

このように取り出すのが難しいと思えるトラウマ記憶ですが、言葉にする作業の中で、時には驚くほど鮮明なイメージが現れることがあります。私たちが普段の生活の中では見落としているような、例えば、通りがかりの家の表札の名前だったり、公衆電話に刻印されたコードの並び、店頭に置かれた傘の色や柄、などが文字通り、生々しく蘇ります。

これらのいわば身体に刻み付けられた記憶を言葉として表現していくことは並大抵のことではありませんが、それができたとき、しばしば患者さんは「自分がこうして話せるとは思わなかった」と驚きを込めて話します。

往々にして言葉をもたないトラウマ記憶を、言語化していくこと自体が治療的に働いているののです。

そして、言葉の形でストーリーとして紡がれたトラウマ記憶はエピソード記憶となって、私たちを悩ますことはなく、ちゃんと心の引き出しにしまっておけるようになるのです。

ではまた!

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トラウマ読書療法

『メグさんの女の子・男の子からだBOOK』性の知識をきちんともつことで、性被害から身を守れるようになる

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマです。

 

性教育、という話題となると、さまざまな捉え方やそれに伴う感情があって、時にはそれが対立を生み、紛糾するようです。

先日、東京都のある区の授業で実施した性教育が「不適切」として東京都の教育委員会が指導にあたるとした記事がありました。それによると「性交」や「避妊」「人口妊娠中絶」という具体的な言葉を使った授業が「不適切」と判断されたとのことです。

それで思い出したのは、10年ほど前に参加したある学会の性教育をめぐるパネルディスカッションです。

様々な意見が出される中で、どこかの大学の先生が「性教育とは、先祖のお墓参りに行くことだ」と発言されていましたが(それを聞いて私は思わず椅子からずり落ちそうになったことを覚えています)、このようにこと性教育となると抽象的に語りたくなる人もいます。

性をめぐるさまざまな知識について、ある程度まで具体的に伝えたいのか、もしくは抽象的にとどめておきたいのか、その幅が極端に広いためか意見の集約が難しく、空中戦さながら光景になることもしばしばです。

 

その中にあって私の考えは明確です。

性については、ニュートラルな言葉を用いて具体的に説明すること。そして私たちが自分自身の身体について客観的な知識を持つことで、自分自身を大切にしたり、危険から身を守ることができると確信しています。

というのも、トラウマの治療と深い関わりがあるのです。

トラウマ体験からPTSDになる疾病率は実はトラウマの種類によって異なっています。例えば性犯罪などの性的な被害は自然災害の6倍からそれ以上の率でPTSDが慢性化する、ということはさまざまな研究によって明らかです。

どうしてこのような違いが起きるのか、それはPTSDが慢性化する一つの要因として回避、という症状があります。

例えば回避とは、「出来事に関連する場所に近寄らない」とか「出来事に関連する感情や考えを避けようとする」などがあり、「出来事のことを話さないようにする」ということはその一つでもあるのです。

実際、多くの性被害に遭った患者さんの治療に関わってきて感じることは、「話さない」のではなく「話せない」ということです。一つには患者さん自身が持つ性に対する恥の感情がそれを邪魔していることがあります。そしてもう一つは話すための語彙を実際に持ってないことです。

体験を話すためには、私たちは語彙や言葉が必要です。

性的な体験に関して話そうとするとき、圧倒的にそれが不足しているのです。

 

『メグさんの女の子・男の子からだBOOK 』を読むと、私たちは怖がったり、恥ずかしがったりすることなく、子どもたちに性の健康について教えることができます。大切なのは、メグさんが言っているように、性について教えることによって「科学」と「健康」と「安全」を伝えることができるということです。

メグさんは子どもに性に対する知識を与えることで、性被害にあいにくくし、もし被害にあったとしても、きちんと大人に伝えられることでその子を守れる、といっています。

大人の女性であっても同じです。

ニュートラルな言葉と知識があれば、性に関する話を恥の感情を伴うことなくきちんと立派に話せるし、それはトラウマからの回復も助けます。

 

墓参りになんぞ行っている暇はありません。

 

ではまた!

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うつストレスセルフケアトラウマ

【カイゼン】幸せの秘訣の一つをお伝えします

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマミチです。

 

日本の自動車メーカートヨタの生産方式は、今や世界中で知られ、研究されている「モノのつくり方」なようです。

その生産の効率化や品質向上の柱ともなっているのが「ムダ」を見つけ出すことで、これを徹底的にカイゼンしていくことが重要な取り組みの一つとされています。

このようなモノづくりにかかわる作業を高度に洗練し、磨きぬいてきた結果、トヨタのカイゼンの概念や方法論は自動車の生産にとどまらず、広く他の業種の効率化やサービスの向上に役立っています。

 

トヨタのカイゼンに代表されるような、問題点を洗い出してそれを直していく、という素朴な方法は実は、私たちが子どもの頃から慣れ親しんでいることでもあります。

私たちは、子どもの頃から学校や家庭では成績や生活態度について、改善すべきところについて指摘をうけ(もっと民主的な学校や家庭では「話し合い」の形がとられることもありますが)、それを次回の試験などへ生かしていくことで、ひいてはよりよい人生が送れるよう、日々薫陶を受けていたのではないでしょうか。

そのかいあってか、日常の生活の中でも私たちは「なにがいけなかったのかな」と考えて、「よし、次はこうしよう」と過去の反省を将来に反映させて、現状を少しづつ改善していくやり方が板についたものになっています。

このような日々の取り組みはとても大切なことです。それに私たちはなにか問題があっても、それに気が付き、うまく改善していくことが出来たらそこに喜びを感じることができます。

 

一方で、私たちがどうしようもなく落ち込んでいたり、ショックを受けているときはこのカイゼン方式が上手くいかないことがあります。

喪失や病気、トラウマなどの、私たちの力がなかなか及ばない困難に際したとき、過去の反省を将来に生かすという作業は大変に難しくなるし、時にはそれ自体がさらなる重荷になることも少なくありません。

このような時にこのカイゼン方式に拘泥して過去の反省を続けても(それはしばしば、自分を過剰に責めたてたり、繰り返し後悔するような形になるのですが)、改善できそうな側面が見つからず、むしろ自責感に圧倒されて、一層、将来への大きな不安や悲嘆に変わってしまいます。

すなわち私たちは過去への悔恨と将来への絶望感の中に囚われてしまうのです。

 

それでは、このような悪循環(今風にいうと「負のループ」と呼ぶようですね)から抜け出すにはどのような方法が考えられるでしょうか。

それが「ソリューション・フォーカスト・アプローチ」という考え方です。

考え方、というよりもこれも実践であり、練習です。

 

「ソリューション・フォーカスト・アプローチ」は、今足りていないところを見つけてそれを改善していく、という未来志向のやり方とは反対に、今、できているところを見つけて、過去のプロセスを再確認する、というやり方です。

例えば、うつを患いつつも、その日たまたま公園に散歩に出かけている自分に気が付いたとしましょう。

その時に「どうしてこれができているのかなぁ」とあたらめてふりかえって考えてみます。そうすると、自然をめでる心を教えてくれた亡き祖父の存在が思い出されます。子どもの頃に家族で散歩した安らかな思い出があるかもしれません。そして今、足や身体を十分に動かせる自分にも気が付きます。

これらの気づきを当たり前、とせずに充分にありがたいことと再確認してみてください。

このような実践の日々の積み重ねで、自分の中にエネルギーが少しづつ溜まってくることがわかるでしょう。そうすると嬉しい気持ちになるし、それは次の回復へのステップへの原動力となります。

大切なのは毎日繰り返し練習してみることです。

私たちが子どものころから「カイゼン式」を何度も実践して身に付けたように、「ソリューション・フォーカスト・アプローチ」も練習すると自然なふるまいとして上達します。

 

 

実はこの方法は人生における、幸せの秘訣と呼ばれるものの一つなのですよ。

ではまた!

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トラウマPE心理療法

【自然治癒に倣う】習慣が正しい、とは限らない件について

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマです。

 

転んで足のひざをすりむいたとき、どのように手当てをしていますか。

ちょっと前には「赤チン」というものがありましたね。

水道水で汚れなどを落としたあと、赤チンをつけることもあるし、他には青いキャップの消毒液をシュシュっとふりかけたりして、ガーゼなどを貼って傷口を保護、乾燥させたものです。

でも今は、消毒液をつけたり、傷口を乾燥させることはせず、そのまま傷口を保護するテープを貼ったり、ラップで覆ったりするとよい、ということが知られています。

「湿潤療法」と呼ぶらしいです。

実は、けがをしたとき、傷口では血小板や好中球、マクロファージが働いて、絶妙なタイミングで様々な「細胞成長因子」が分泌され、これにより細胞が活性化し傷が治る、というメカニズムがわかってきたのですね。

 

このように傷が自然に治るとはどういうことか、丁寧な観察や研究からわかってきたことで私たちの手当ての方法は変わってきました。

 

 

それでは心の傷とか、トラウマ、PTSDと呼ばれるものではどうでしょうか。

 

なにかとてもショックなことがあった時、それが自分にとって、または周りの人が受け止めきれなかったりするものであった場合に、しばしば治療者もふくめ、人はこのように言うかもしれません。

「すんだことは忘れなさい」

「いつまでも過去にとらわれるべきではない」

「前を向いて」

 

しかし、PTSDが自然治癒する経過についてはよく研究されていて、そのとき人は過去のショックな出来事について話したり、それについて再び考えたりすること、それをきちんと受け止めてもらえるサポートがあることが、その後の回復に促進的であると知られています。

トラウマについて、思い出したり、話したり、そこからの感情を避けないことや、「世界は危ないところだ」とか「自分は無力だ」といったトラウマからの考え方が、今も実際にそうなのか、腰を据えて考えていくことが、PTSDの回復のための要素であるらしいのです。

 

すなわち、過去のことは忘れなさい的助言とは逆のことが必要みたいです。

 

ではまた。

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トラウマ心理療法

【EMDR 個人的な体験、それから】個人的な体験からの普遍的な知識

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマミチです。

 

約10年前、EMDRのワークショップに参加し、そこで流れ出てしまった自分の涙を、同じ会場にいる上司にさとらせまいと、四苦八苦している私です。

●どうしてこんな状況になっているのか知りたい→こちらへ

 

上司は幸いなことに私の涙の決壊には気がついてはいないようでした。

というよりも普通に考えると、上司だってその時は患者役であれ、治療者役であれ、自分自身のロールプレイに集中していたのだと思います。

 

治療者役の先生は真剣な表情で指を左右に振って、その場にとどまるように優しく声がけをしてくれています。

 

その間、私は自分の内側は猛烈に、なんというか、足掻いている、という状態でしょうか。

私はトラウマとつながっている不快なイメージ(そしてそれが涙の原因だと私はニラんでいました)が頭の真ん中を占領してしまわないように、頭の中の引き出しの中をやたらにかきまわして、なにか他のもの、自分に必要な別のなにかを必死に探していました。

 

相変わらず、治療者役の先生は指を左右に振っています。そして患者役の私は涙を流しながらその指を目で追っています。

 

私は引き出しの中をひっかきまわしていましたが、なにを探しているのかは自分でもしかとはわかりません。それでも、あれでもないこれでもないと、引きずり出してはポイポイ投げちらかしています。

何回かつかんでは投げつかんでは投げ、をやっていた時、ふいに恩師の顔が浮かびました。私に初めてカウンセリングについて教えてくれた先生でした。

 

予想外の顔が出てきて、ほっとしたことと、嬉しさで一層涙があふれてきました。

ふと、こんなに涙を流して大丈夫なのか、という理性ともなんともつかない声がかすかに聞こえましたが、この涙は心地がよくて、それからの連想は止まりませんでした。

今までの人生のあちこちで出会い、私を支えてくれた人々のあたたかい顔が、ぽこんぽこんと浮かんできては、それらが木の実のようになりはじめました。いつの間にか私の頭の周りには枝が生え、葉も生い茂っていて、木の実はその間に心地良くぶら下がっています。

そうして足のほうは、木の根のように床にしっかりと根を張っているのを実にリアルに感じています(しつこいようですが、実際の私は椅子に座って治療者の指先を追っています)。

 

「治療」が終わって、講師の先生は穏やかに「ロールプレイでどんな体験をされましたか」と尋ねてくれました。治療者役の先生は幾分か疲れた顔をしています。多分、滂沱の涙を流す私を心配したに違いありません。

私はロールプレイの最中に起こっていたことを詳しく話し、それはとても面白くて楽しい体験だったと伝えました。先生たちはこの劇的ともいえる展開に一緒になって喜んで下さいました。

トラウマ?

私のトラウマはどこかに飛んで行ってしまいました。

 

 

この短い、時間にして15分も満たないトラウマの処理の体験の最中、きっかけはなんであれ、自分の内側から普段気がついていない(びっくりするような!)力が作用して、ポジティブなイメージが作り出されました。

このことから私は、人が本来的に持つ回復への志向性を直感的に知れたように思います。

 

 

そうして今はいろんなめぐりあわせで私はPEのセラピストとしてトラウマ治療に関わっています。

PEのセッションの中でも、人々は時に驚くような洞察力でトラウマを乗り越えていきます。それを繰り返し目の当たりにすることで、あのEMDRのワークショップの時に得た直観は実感になりました。

 

人にはトラウマから回復しようとする力が本来的に備わっているということです。

これに尽きます。

●市井先生(EMDRの権威)にPEについて伝えたい☞【PE】そのネーミングセンスがいかがなものか問題

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