カテゴリー: トラウマ

トラウマ発達障害

【トラウマっ子】と【発達っ子】

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

 

20年くらい前から、児童相談所などで発達障害と診断される子どもの中に、虐待を受けている子どもが相当数含まれているということが明らかになってきました。たくさんの子どもを診てきた精神科医の杉山登志郎先生は「一見、発達障害のように見えて、その実、虐待の影響で起きている不適応的な行動」を「第4の発達障害」として、わかりやすく本にもまとめています。

 

発達障害はASD(自閉症スペクトラム症)、注意欠陥多動症(ADHD)、学習障害(LD)などを含む幅広い概念を指します。スペクトラムという言葉(なんだか響きがカッコイイ、と思うのは私だけでしょうか)は、「連続体」という意味で、病態の軽い人から重い人まで、同じ線上にいますよ、ということです(風邪に例えるなら、鼻かぜからインフルエンザまでその両者が「風邪スペクトラム」の同じ線上の両端にいる感じです)。

ASDは、臨機応変な対人関係やコミュニケーションが苦手であること、興味や活動が偏り反復的で融通が利かないことが特徴です。

ADHDは、注意が散漫であることや、落ち着きがなく衝動的な行動をとることなどの特徴があります。小学生の時にしょっちゅう忘れ物や落とし物をする子(そう、それは私です)や、授業中にふらふらと教室を立ち歩く子がいましたが、そういう子どもたちの一部はADHDであった可能性があるでしょう。

LDは、全体的な知的発達に遅れはないものの、「聞く」「話す」「読む」「書く」「計算または推論する」などの能力のうち一部の取得と使用に困難を認める状態です。俳優のトム・クルーズがディスクレシア(失読症。dとbの判別ができなかったそうです)だとカミングアウトしたのは有名な話です。

発達障害の診断に関しては、心理検査によってその特徴は比較的きちんと捉えることができます(自己診断や医師のカジュアルな発言を鵜呑みにしない方がいいということです)。その原因に関しては実はまだよくわかっていないことの方が多いのですが、生まれながらの気質ってところは勘案されることです。発達障害の子どもがいたら、その周りの親族に似たような「タイプ」の人がいた、というのは実によくあることなのです。

そんな発達障害ですが、難しくしているのはトラウマの影響によっても、それと同じような症状が表れることです。つまり、子どもは虐待などトラウマ的な衝撃を受けると、対人関係がぎこちなくなり、興味の範囲が狭くなります。安全確保のために儀式的な行動がみられたり、多動になりやすく、学習が困難になります。考え方も融通が利きづらくなります。

 

子どもたちが長じて大人になると、これらの自分の生きづらさが発達障害のせいなのか、または何かしらのトラウマのせいなのか大変に悩むことになります。つまり、自分はまさにこの世界において、生きにくい感じ、何かしらの困難を感じているけれども、それは、発達障害という「自分の気質のせい」にしていいのか、虐待の影響だとして「環境または親のせい」にしていいのか、繰り返し思い悩むのです。

もっと難しくしているのは、それらははっきり分けられるものでもなく、発達障害の気質がありつつそれにプラスして虐待の影響がみられる人、発達障害の気質があることによって虐待の症状が重く出ている人、また、発達障害の子は一般的に育てるのにコツがいりますから、その関わりの難しさの中で虐待が発生しやすかったり、また発達障害の親が意図せずに虐待的に子どもを扱ってしまうこともあって、とにかく発達障害とトラウマは切っても切り離せない関係にあるのでした。

 

そのため、多くの人が頭を悩ませるのは当然の状況の中で、唯一希望と言えるのは、発達っ子にもトラウマっ子(子どもだけでなくオトナたちも含め、親愛の情をこめてこう呼んでいます)にも、その改善や回復のために必須なことは共通している、ということです。

 

それは「安心・安全」です。

 

「安心・安全」の感覚をどうやって確保し、拡充していくかは、臨床の場面でそれぞれケースに合わせて具体的に工夫していくことですが、あなたが悩んでるときには「安心・安全」のために今なにができるかな、というところに立ち戻って「悩み直して」みてほしい、と思います。

 

 

●呼吸によって安心する☞【トラウマと呼吸】身体を気持ちにフィードバックする

●タイトル通り!☞【ストレスと呼吸】今は安全だってことを、身体と心は呼吸によって学ぶことができます

●セルフケアで安心を拡充する☞【「自分アプローチ」としてのセルフケア】3つのチャンネルを意識すると上手になります

 

ではまた!

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トラウマ感情調整

【堪忍袋】の中身、怒りと傷つき

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

 

アニメ『巨人の星』の星一徹の行動について、(仮に怒ってたとしても)何もちゃぶ台を返す必要はない。自分の感情は言葉で伝えたり、他の何かの手段で表現できるはずだ、というのが、以前の記事の話でした(これだけのことを説明するのに相当クドクドと書いてしまいました。「薄味」がきいて呆れます)。

 

私たちは「堪忍袋」というものを持っているそうです。堪忍袋というのは、腹が立つことがあっても、この中に入れて紐を結わえてしまうと、それをなかったことにできたり、我慢することができる貯蔵庫のようなものです(布製らしいです)。

堪忍袋はお手軽で便利そうではありますが、長い目でみるといろいろとデメリットもあります。まず、堪忍袋にはある一定の容量があるため、容量が一杯になると結んでいた紐がプチンと切れて、今までためていた怒りが派手に飛び出す仕組みがあるのですが、これがどうもいけません。またその容量も人によってずいぶん個人差がありそうです。加えて、堪忍袋がいっぱいになった「気分」というか、そういう体で、ちょくちょく爆発させてくるハタ迷惑な確信犯もいるようです。

実は、堪忍袋の一番の欠陥といえるのは、その袋の中に入るのは「怒り」だけではない、ということです。

むしろ「怒り」以外のものが一緒くたに入れられているのに、それを「怒り」と勘違いしているのかもしれません(嫌な気持ちは「怒り」の感情として認識されることが多いのですが、「怒り」にしてみればこれは心外なことでしょう)。

 

そんなんで、星一徹の話しに戻ります。

彼の堪忍袋には何が入っていたのでしょうか。

ウィキペディアによると、星一徹は戦前、野球選手としてプロ野球界に在籍していましたが、従軍中に肩を壊し、引退。日雇い労働者となりますが、アルコールに溺れる日々を過ごすようになります。さらに妻・春江の死を経て、息子・飛馬に対して猛烈な野球教育に傾倒するに至っています。

割と大変な人生です。

ちゃぶ台返しをしたときの一徹の「堪忍袋」の中には、自分の野球人生に挫折した苦しみや悔しさ、今の生活における屈辱感、妻を亡くした喪失感や悲しみ、息子を通してもう一度自分を輝かせたいという希望や失敗に対する怖れ、そしてもしかしたら、彼の戦闘経験の記憶からくる恐怖、などが全部一緒に入っていたのかもしれません。

でもそれらの感情に比べると「怒り」はさほど入っていないようです。

実は、殊更に男性にとって、傷ついた気持ちを認めることはとても難しいことなのです。ある人は傷ついた気持ちをアルコールで麻痺させて感じさせないようにしたり、またある人はそれを「怒り」として、他者に当たったり、ちゃぶ台に当たったりして表現します。でも、傷ついた気持ちを「怒り」として表現しても、癒えることはありません。むしろ、自分の行動が引き起こした結果:泣いている子どもたちであったり、ぐちゃぐちゃになっている部屋を見て、もっと傷つき、落ち込んだ気持ちになるのです。

 

このように、「怒り」はしばしば「傷つき」と混同されて感じられることがあります。彼にとっては大変苦しいことでしょう。

だからといって、ちゃぶ台をひっくり返してもいいよ、とはやっぱり言いません。

それにアルコールや薬物の摂取は、堪忍袋の容量を増やすように見せかけて、むしろ爆発を大きくしたり、すごく感じ悪くしたりしますので、それもやっぱりお勧めしません。

 

お勧めするのは、勇気をもって自分の気持ちを認めて、助けを求めることです。

 

それには「どえらい勇気」がいるってことも理解しています。

それでも、あえてその道をすすめるのは、そこにしか道はないからです。

 

●この記事は前回の記事の続きです☞【ちゃぶ台返し】と怒りと2歳児と

 

怒りの感情について、こちらもどうぞ

●怒りは考えによってより燃え盛る☞【感情調整】怒りそのものなような、そのようにみえるような

●怒りのコントロール法☞【タイムアウト】感情のコントロールについて【いつものパターンになっていませんか?】

●お茶飲んで話を聞いてもらうのもいいですよ☞【老和尚と鬼】怒りのコントロール、アンガーマネージメントともいいます

 

ではまた!

サードプレイス

 

 

 

トラウマ複雑性PTSD

【複雑性PTSD】のDSO症状のことなど、いろいろ

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

 

ICD-11(WHOが作成する、疾病及び関連保健問題の国際統計分類の第11回改訂版です。ちなみにICDはInternational Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems、WHOはご存知の方も多いと思いますがWorld Health Organizationの頭文字です。今日は頭文字がいっぱい出てきます。気合入れていきましょう)は今、絶賛改訂作業中なのですが、複雑性PTSDの項目もそれに伴って右往左往、といわないまでもずいぶんと変化を遂げているようです。

複雑性PTSDの「症状群」はDSOという概念というか言葉で記述されつつあります。

DSOはDisturbance in Self-Organizationの頭文字で、「自分がいい感じでまとまってくれない状態」みたいな意味だと思ってください。

DSO症状は3つあって、1つは感情制御の困難(affective dysregulation:AD)、2つ目は否定的な自己概念(negative self-concept:NSC)、そして3つ目として挙げられているのは、対人関係の困難(disturbed relationship:DR)です。

ここまでは、これまでの症状が名付けられ(ADとNSC、それにDRといわゆるニックネームまでついて)、まとまってきたんだなというところですが、一番大きな変化は、複雑性PTSDの出来事の基準についてでした。

 

単回性のトラウマ的な出来事からPTSD、長期・反復性のトラウマは複雑性PTSDと、このブログでも何度も書いてきて(しまって)いる、この前提条件みたいなのがなくなってしまったのです。

複雑性PTSDに特有の出来事基準を採用されるのは見送られ、PTSDと同様の出来事基準が用いられることになりました。つまり複雑PTSDもPTSDも同じトラウマ的出来事から発症し、違いはDSO症状がある(複雑性PTSD)か、ない(PTSD)か、だけの違いになったのです。

 

ちなみにPTSDの出来事基準は以下の通りです(DSM-5という診断マニュアルをまるっと写しました)。診断マニュアルでは以下の出来事を「これこそがトラウマ的出来事である」と定義しているのです。

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実際にまたは危うく死ぬ、重傷を負う、性的暴力を受ける出来事への、以下のいずれか1つ(またはそれ以上)の形による曝露:

  1. 心的外傷的出来事を直接体験する
  2. 他人に起こった出来事を直に目撃する
  3. 近親者または親しい友人に起こった心的外傷後的出来事を耳にする。家族または友人が実際に死んだ出来事または危うく死にそうになった出来事の場合、それは暴力的または偶発的なものでなくてはならない
  4. 心的外傷的出来事の強い不快感を抱く細部に、繰り返しまたは極端に曝露される体験をする(例:遺体を収容する緊急対応要員、児童虐待の詳細に繰り返し曝露される警官)

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複雑性PTSDはもともと児童虐待や強制収容所、長期間の過酷なDVなどが前提になって様々な症状が表れてくると想定して作られた診断名です。今回、その前提が外れてしまったことで、梯子を外されたような気分になっているのは多分、私だけではないでしょう。

そんな中でDSO症状に悩んでいるのは実際、長期・反復型のトラウマの体験者に多い、ということは事実ですが、それに反した症例も報告されています。成人期の単回性のトラウマでもDSO症状を示す人々はいますし、反対に、子どもの頃に性被害を受けた人でも家族に守られたことで、DSO症状を発症せずに、通常の(もはやなにが通常なのかわかりませんが)PTSD症状のみの発症にとどまっていた、という症例もあって、そんなこんなで、複雑性PTSDになるのは、被害の種類というより、環境要因や運が大きいということが浮き彫りになりつつあります。

 

こうして複雑性PTSDは長期・反復性トラウマ、というアイデンティティの一部を手放しつつあります。なんだかしっくりしないような余韻があるにせよ、です。

しっくりしないと言えば(そして、この際だから言ってしまいますが)、問題提起しておきたいこともあります。

身体的、情緒的なネグレクトの養育環境、学校時代のいじめや、教師や医師といったケアを提供する立場にある人物からのセクシュアルハラスメントやその他のハラスメントなど、PTSDの出来事基準に満たないトラウマは沢山あります。

これってトラウマではないのでしょうか。

そんなことはないでしょう。

 

 

そうそう、忘れていました、DSMは、Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders(精神障害の診断と統計マニュアル)の頭文字です(いや、もう覚えなくてもいいです)。

 

●複雑性PTSDの診断ついて☞【複雑性PTSD】診断がつく、ということは治療法があるということです

●PTSDの症状についてもっと☞【PTSD症状】PTSDの症状についてさくっと説明します

 

こちらもどうぞ

●トラウマ?PTSD??☞【トラウマとPTSD】トラウマとPTSDの違いについてさっくりと説明します

 

ではまた!

サードプレイス(TP)

サードプレイストラウマ

【学校】のトラウマ

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

 

フォトグラファーの石田郁子さんが、中学教師から性被害を受けてPTSDになったとして札幌市を提訴しました。

 

トラウマに気が付いたとき、その時の行動の仕方は人それぞれです。石田さんは訴訟という方法を取りましたが、そこに至るまで、並大抵ではない道のりであったと想像されます。フォトグラファーとしても石田さんは、被写体にどのように向き合っていくのかを常にご自分に問うていられた方でした。

 

記者会見で、石田さんが涙をこらえながら「15歳から19歳まで被害に遭っていた自分を守れるのは、自分しかいない」と言った時、これまでの石田さんの心の軌跡に触れたようにも思いました。

 

「子どもの頃の自分を守れるのは、今の大人の自分自身しかいない」

既に、ここに石田さんは到達されているのだなぁと思いました。

 

これからの道のりも応援しています。

心から、ガンバって!!

 

サードプレイス

 

トラウマ感情調整

【ちゃぶ台返し】と怒りと2歳児と

こんにちは。

飯田橋にあるカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

 

アニメ『巨人の星』で、星飛雄馬の父親はちゃぶ台返しを得意技としていました。それにしても、彼は一体全体なんだってあんなに腹を立てていたのでしょうか。

おかずが不味かったのでしょうか。

貧乏ゆえのストレスでしょうか。

飛雄馬がなにか悪いことをしたからでしょうか。

それとも、本人の器が小さいのでしょうか。

いろいろと考えてみますが、ちゃぶ台返しのあのシーンのインパクトが強すぎて、あそこに至るきっかけとかそんなのが忘却の彼方に行ってしまっていることに気が付きます。そもそも、ちゃぶ台をひっくり返して、飛雄馬のお姉さんが少ない家計をやりくりして揃えた材料で作った心づくしの夕食を台無しにしてもいいってことはないのです。

 

星一徹(父親の名前です)がなぜ、ちゃぶ台返しをするに至ったのか、その答えのヒントは保育園にありました。

臨床心理学を学ぶ大学院で、赤ちゃん心理学や子ども心理学などをテーマにするゼミに入ると、学生たちは保育園に行って、子どもたちの発達を観察する機会が得られたりします。そこで実習と称して、ベテランの保育士の先生たちのお手伝いをしたり、子どもたちと遊んだり、ナメられたりしながら過ごすのです。

特に大変なのは2歳児クラスです。その他のクラス、例えば0歳児クラスは、こういってはなんですが、ほぼ寝たきりで、動きもトロいので、学生のペースでお世話ができますし、年長さんクラスになると、今度は子どもたちのほうが学生の使い方を心得ていて、一緒に遊んでもらったり、絵本を読んでもらったりしています。

2歳児クラスの子どもたちは、動きがすばしっこくなってつかまえにくくなっている上に、空腹や疲れなどの身体の変化がもろに気分にでていきなり不機嫌になったりします。また、仲間同士でもめごとがあると、アクマのようになって、手が出たり、足が出たり、口が出たりで(2歳児クラスに入ると、よっぽど危機管理能力の優れている子でない限り、1回や2回は噛んだり噛まれたり、という事件に巻き込まれます)その場が一気にカオスになることもしばしばです。2歳児クラスを担当した学生たちは夕方には心身ともに疲弊して帰るのが常でした。

学生たちがボロボロになっている一方で、先生たちは落ち着いたもので、なぜなら2歳児たちが癇癪を起したり、荒れることは既にオリコミ済みのことだからです。つまり、2歳児の子どもは様々な気持ちが分化し、自分の主張も芽生えてきている時期ですが、それを表現する術がまだ上手ではないので、つい攻撃的な行動に出てしまう、ということを承知しているのです。

子どもの認知的な発達が進み、悲しい、悔しい、いやだ、などの自分の気持ちがきちんと言語化できるようになったり、社会的な発達によって仲間と協力して遊んだり、作業ができるようになってくると、手が出たり、足が出たり、口がでたり(これを行動化と呼んでいます)することは、ほとんど見られなくなります。プロの先生たちは、2歳児のここで、発達を促すような適切な関わりをすることによって、約1年後には落ち着いた(そして実り多い)年長さんになれるということをよく知っています。

 

2歳児クラスで四苦八苦する学生のように、多くの人は「怒り」にあうと恐れ、疲弊するものです。

なぜなら、「怒り」は、人を傷つけ、自分を傷つける、そうして他者との関係性を傷つけ、社会での自分の居場所をなくしてしまうとされているからです。「怒り」の感情は、社会的なタブーとなっている側面があります。

そういうこともあってむしろ逆に、「怒り」のそのような触れ難い性質を意識的にもしくは無意識に利用する人もいます。すなわち「怒り」は田舎のあぜ道にドーンと高速道路を通すような効果があって、その勢いであっという間に自分の主張(しばしばそれはとても理不尽なものです)を通してしまうのです。

 

しかし、怒り=(対象を傷つける)攻撃、ではないことは、2歳児クラスの子どもたちの例から私たちは既に学んでいます。

怒りを感じるという内的な体験と、攻撃という行動をするということは本来は別のことであるし、そもそも「怒り」は一見「怒り」に見えるものの、それはまた他の感情である可能性もあります。

子どもたちは「悔しい」「悲しい」といった気持ちの他に「一緒にいたい」「近寄りたい」などの気持ちも「怒り」や癇癪として行動化していました。そして、それらはそれぞれちがった、適切な行動にすることが可能です。例えば言葉で話す、文章にする、絵やアートで表現する、人とのつながりや共にいることを求めることなどを通して、私たちは攻撃以外の他の方法でもって自分の感情を表現することができます。

 

星一徹は怒って、ちゃぶ台をひっくり返す、という行動の代わりに、どんなことができたでしょうか。またその時の「怒り」のように見えるもの、それって本当はどんな気持ちがあったのでしょうか。

 

この『巨人の星』の話は続きます。

【堪忍袋】の中身、怒りと傷つき

 

 

●怒りは考えによってより燃え盛る☞【感情調整】怒りそのものなような、そのようにみえるような

●怒りのコントロール法☞【タイムアウト】感情のコントロールについて【いつものパターンになっていませんか?】

●お茶飲んで話を聞いてもらうのもいいですよ☞【老和尚と鬼】怒りのコントロール、アンガーマネージメントともいいます

 

サードプレイス