カテゴリー: トラウマ

トラウマ複雑性PTSDPESTAIR/NST心理療法

【複雑性PTSD】究極的な回復の手段

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

以前、臨床家たちの丁寧な観察と記述によって、PTSDから複雑性PTSDという診断が枝分かれしてきたことをお伝えしました。今では事故や災害、犯罪被害などの比較的短い期間の単回のトラウマ体験を「単回性トラウマ」とする一方、子どもの頃の逆境体験(虐待やネグレクトなどが含まれます)や戦争体験など、月や年単位にわたる期間に繰り返しトラウマ的出来事にさらされることを「長期・反復性トラウマ」と呼んで、それらの症状を前者はPTSD、後者を複雑性PTSDと結びつけて論じるようになっています。

このように診断が異なるとそれに対応した心理療法が必要であると考えるのは当然のことですが、実はトラウマからの究極的な回復は(単回性であっても長期・反復性であっても)同じです。

すなわち、それは過去のトラウマ記憶を整理すること、とされています。

 

複雑性PTSDのための心理療法、STAIR/NSTを開発したクロワトル先生も回復のゴールについて、こう話しています。

「トラウマからの究極の回復とは、過去の記憶に向き合い整理することである」。

STAIR(複雑性PTSDのための感情調整と対人関係のためのスキルトレーニング)の必要性については、「現在の感情調整や対人関係に多くの課題があり、それによって日常生活に相当苦痛がある場合に、心理療法(STAIR)がその安定のために役に立つだろう」と説明しています。

クロワトル先生が示しているのは、過去(トラウマ)と現在(トラウマから引き起こされた苦痛)を天秤にのせてバランスを取る、ということで、回復の焦点は過去に据えながらも、現在の問題が重すぎる場合には、まずその対応をするということです。

 

これはなにも複雑性PTSDに限ったことではなく、トラウマ的な出来事を体験した人々はPTSDとは別の問題を抱え込むことがあります。それがいわゆる、コモビディティ(併存疾患)と呼ばれるものです。

例えば、アルコールやギャンブル、危険な性的行動などにみられる依存の問題や、摂食障害、強迫症、または、犯罪を犯す(加害行為をする)ことなど、一見トラウマとは関係のないようにみえる様々な問題は、実はトラウマとの併存が相当数あると見積もられています。

クロワトル先生の天秤を想像してみてください。もし、併存している症状でその人の日常生活が障害され、天秤の「現在」の側が大きく沈んでいるようなら、まずはその併存疾患なり症状の緩和が優先されます。つまり、断酒の持続や、セーフセックスができること、普通に食事できること、手を100回も洗って指紋が消えたりするようなことから解放されること、そして、刑務所で罪を償うこと(これは症状の緩和というよりも社会的な要請ですが)です。

そして、ある程度現在が安定したら、今度こそ過去のトラウマ記憶に戻って、それについて話したり、考えたりして、辛い体験を消化していくことが本当の意味での回復につながります。

 

そういえば、PE(一番エビデンスがあるといわれるトラウマ焦点化心理療法。クロワトル先生のNSTをはじめ、子どものためのTF-CBTなど、さまざまな心理療法はPEに倣って開発されています)を開発したフォア先生ですが、

「PTSDと複雑性PTSDに違いなどない」

と(パコーンと)竹を割るがごとく言っていました。そのココロは、トラウマ体験が1回だけという人よりも、多かれ少なかれ複数のトラウマが入り混じった複雑な体験になっている人のほうが実際のところ多いので、ごちゃごちゃやっていないでさっさとPEをしろってことなんでしょう。

・・・そんなご無体な。

 

 

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トラウマPE

【PE】そのネーミングセンスがいかがなものか問題

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

先日とある福祉事務所の人との打合せの時に「私はトラウマケアを専門的にやっておりまして、PEのスーパーバイザーなんです」と精一杯、爽やかに自己紹介したところ、相手の人の眉間にはたちまち縦皺が波のように押し寄せてきて「あの曝露療法ですか・・・」と一気に鎮痛ともいえる雰囲気になってしまいました。

PEは日本に導入されから、今の「持続エクスポージャー療法」という定訳を得るまでの結構長い間、「長時間曝露法」などと呼ばれて、講習会や勉強会が開催されていました。「曝露」という手法自体は他の精神症状(例えば不安障害や恐怖症などの)でも使われるものなのですが、「トラウマ」と「曝露」という組み合わせにびびった人も少なからずいたようです(何を隠そう、私もその一人でした)。そして、この言葉のインパクトがなかなか抜けない人がいても、それは当然ともいえることです。

EMDRを日本に導入された、トラウマ臨床の第一人者である市井先生もその一人でした。「患者さんを苦痛な記憶に無理やり漬け込むものかと思った」とごく率直に、PEについての第一印象を話されたものです。

 

そこで、私は

「それはちがうのですよ、エクスポージャー(曝露)は拷問みたいにむりやりするものではないんです」。

とあわてて言いたいのをぐっとこらえて、小学生の時の思い出を話しはじめます。

というのも、PEって私が小学1年生の時に牛乳嫌いを克服したやり方に似ているからです。

 

私は物心ついた時から牛乳の匂いがどうも苦手で、牛乳嫌いなまま小学生になってしまいました。それまではお弁当だったのでなんとか逃れられていたものの、私の通っていた公立の小学校の給食では、毎日、瓶牛乳200ml一本を飲む、いう難題が待ち受けていました。

担任の先生はハタノ先生という平安時代の十二単が似合いそうな(この表現で先生のたおやかな雰囲気を察してください)女性で、この先生が私のセラピストとなったのです。私の牛乳嫌いを克服するためのセラピストです。

いよいよ給食がはじまる当日の朝、私が恐るおそる先生に牛乳が飲めないことを伝えると、意外にも先生はにっこりして「じゃあ今日は一口だけ飲んでみましょうか」と言います。一口だけ、ならいけそうです。頑張って一口飲んで、残ってしまった分は隣の席のタカハシくんに飲んでもらいました。

そして翌日は「二口飲んでみようね」、3日目は「三口飲んでみましょう」。言われるたびにその通りに飲んで、残りはタカハシくんにパス、というパターンが続きます。こんな風に進んでいくと幼い私にも毎日一口づつ増やしていくんだなという推量がついてきます。

それなのに4日目になると「じゃあ、今日は半分まで飲んでみましょう」と言われたので、当てが外れてびっくりしてしまい、半分なんてとても無理だとも思ったのですが、今までの勢いもあるし、それになんとなくここまできて嫌だとも言いづらく、「エイヤ」と飲んでみることになりました。そうしたら、あっさりと半分までいけたのです。先生は大層ほめてくださるし、私もかつて飲んだことのない量の牛乳に自分自身でも驚き、とても誇らしい気持ちになりました。

そして5日目。先生はサラリと「今日は全部飲めると思うわよ」とおっしゃいます。なんとなく前日に半分いけた、ということが自信になっていたのでしょう、昨日の半分ほどの「エイヤ」の気持ちで全部飲み干すことが出来たのです。先生やタカハシくん、まわりの友だちも拍手してくれ、私は心からエッヘンという気持ちになりました。

私はこうして牛乳が飲めるようになりました。勿論、牛乳は嫌いだったので、飲むこと自体は愉快なことではありませんでしたが、こうして少しづつチャレンジしたこと、ハタノ先生が私の様子をよく観察して、私自身にも気が付かない、私の能力(というと口幅ったいですが)に敏感に気が付いてくれて、いけそうだと判断すると上手くプッシュしてくれたことが功を奏し、うまく克服できたことで自分自身に誇らしい気持ちになれました。

 

PTSDには、トラウマに関連したことや物などを避ける、という症状があります。例えば加害者が身に着けていたメガネ、帽子、服装などです。そういったものを目にすると、トラウマ記憶が思い出されて大変苦痛を感じるのです。

PEでは、そういった現実生活の中にあるものに対して、それ自体害がないものであれば(大抵、メガネやら帽子それ自体には害はありません)私が牛乳嫌いを治したように、自分で近づけるところから徐々に、そしてセラピストが見守り、時にプッシュする中で、克服できるようになるのです。

 

・・・というような話をしたいのですが、いささか長くなりそうなので、実は今までできたためしはないんですけどね。。。

 

もちろん市井先生は今はちゃんと理解してくださってますよ。

 

●市井先生のワークショップでのEMDR体験☞こちら

●PEの効果について☞こちら

●PTSDの回避の話☞『ゴルゴ13』デューク東郷氏の背負い投げ

 

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トラウマ複雑性PTSD

【虐待の世代間連鎖】パトナム先生の解決法

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

 

「虐待の世代間連鎖」という言葉を知っていますか。

大雑把にいうと、虐待されて育った子どもが長じて親となったときに、自分の子どもを虐待してしまう現象、のことを指します。

このような現象が起こりやすいということは、データからも報告されており、この現象に対する心理学的な説明も、トラウマ理論や愛着理論などの上で試みられています。

 

私がまだ若くて臨床心理士になる前のこと、シェルター機能をもつ行政機関で働いていたことがあります。いわゆる福祉分野でしたので、DVや虐待、貧困などの報告を耳にすることは日常茶飯事で、どうしたらいいか的な会議や研修会なんかも開かれたりします。

そういった場面で、DVや虐待の事例にどう対処するか、などのテーマでの話し合いや討論になると、たびたび行き止まり状態に突き当たったものでした。

「結局は」ある行政の人はいいます。「今虐待しているその母親だって、子どもだった時に虐待されていて、その時から問題は続いているんだ」。「今どうこうしようたって今さらどうしようもない」。

「育てなおしが必要だ」という人もいます。それに対して「誰が育てなおしするんだ」という意見があります。「だいたい育てなおしなんて、そんなん言っていること自体傲慢だ」と反対する人もいます。

そんな風にして会議は、無力感とも怒りともつかない、どう形容していいかわからないような感情が渦巻き、結局は不完全燃焼のまま時間切れになるのです。

こうして私たちはしばしば「世代間連鎖」という言葉のくびきから逃れられなくなってしまっていたのでした。

この言葉に文字通り、鎖につながれたように縛られている当事者もいます。自分が虐待を受けてきたために、親になってから適切な子育てができていないのではないかと極度に不安になっている人たちです。精神科医やカウンセラーたちはこの言葉を様々な場面や媒体で多用してきました。そのため、それは今や呪いのようになっている面もあります。

でも、どんな傾向があっても、そこには例外だったり、その流れってものに反することはあるものです。

パトナム先生はその辺をよくわかっていました。

すなわちパトナム先生は、「虐待を受けて育ちながらも、自分が親になって適切な子育てをしている人たち」の存在に目を向けたのです。そうして、そうなるには何が良かったのかを丁寧に調査しました。例えば、その人の知的な能力とか、仕事をしているとか、そのような要因がどれだけ被虐経験からの回復に効果があったのかなどを調べてみたのです。

その調査の結果、唯一効果があるとされたのは、「自分の虐待された経験をだれかに話す」というものでした。パトナム先生がいうのには、このだれかに話すという「だれか」は、別にセラピストである必要はなく(ここで自分たちの役割を常に探している、欲深い私たちセラピストは嘆息したものです)、ごく普通の隣人や友人であればよい、とのことでした。

パトナム先生はこの調査を受けて、アメリカのシンシナティで赤ちゃんが生まれた家庭を対象に、絵本を届けるボランティア派遣のプロジェクトをはじめました。お母さんがボランティアと普通に会話する中で、もしかしたら自分の被虐経験を話す機会も増えることが、トラウマの回復に促進的に働き、適切な子育てにつながる、と考えたわけです。

 

一方で、親になるばかりが人生ではありません。

自分の被虐体験をどう受け止めて、どう答えを出していくのかは人それそれぞれです。親になることを選ばずに「自分で自分を育てなおししている」と話した元大学教授の田嶋陽子さんや、「自分自身をしつけて生きる」と語った漫画家の槇村さとるさんのような処し方もあります。

 

そして、今の私が昔の私に助言できることは、「できていないところではなく、できているところをみてみる」ということです。ポジティブな側面はいつだって何かしらのパワーを生みだすってことを忘れてはいけません。

●パトナム先生の素敵な子育て☞こちら

 

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トラウマ複雑性PTSDPESTAIR/NST呼吸

【トラウマと呼吸】身体を気持ちにフィードバックする

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

あまり知られていないことかもしれませんが、多くのトラウマ焦点化心理療法では呼吸法の練習も行います。

PE(持続エクスポージャー療法)では呼吸再調整法、TF-CBT(子どものためのトラウマ焦点化心理療法)では腹式呼吸、STAR(複雑性PTSDのためのスキルトレーニング)では集中呼吸法、と呼ばれていて、名称はそれぞれ違うものの、目的は同じと言っていいでしょう。

それは呼吸によって不安や恐怖を自分で和らげる、ということです。

過去のことを思い出したり、フラッシュバックしたり、悪夢を見た時は、心臓がドキドキしたり、息が浅くなっています。手足が冷たくなっている感覚に気が付く人もいます。身体はその時、危険に対処するためにいわゆる交感神経系が優位になり、血中の酸素やアドレナリンを増やして、いつでも逃げられるように(長いこと走ることができるように、そして出血した場合はその量を少なく抑えられるように)備えているわけです。

人によってはこのような状況の時をさして、「タイムマシーンで過去に引き戻されたような」「その時にタイムスリップでもしたような」感覚、と言ったりします。

でも、この状態は、なんというか身体の「やりすぎな状態」なのです。

例えばタイムスリップな身体の感じは、家の中や、学校の教室の中、移動している電車の中などで突然起こったりします。でも、それらは比較的安全な状況で、言ってみれば穏やかな「日常生活」の場面でのことで、長いこと出血を抑えながら走って逃げたりする必要が生じる恐れはないのです、ほとんどの場合。

そこで、身体に「今はさほど危なくないし、大丈夫なんだよ」というのを伝えてあげるために、呼吸法を行います。

危険だったり、緊張が強いられている状況では、酸素をなるべく多く吸い込むために、呼吸は浅く、そして早くなります。安全な状況ではその反対です。呼吸は吐きだされ、深く、ゆっくりしたものになっています。したがって、PEの呼吸調再整法でも、TF-CBTの腹式呼吸でも、そしてSTAIRの集中呼吸法でも、すべからく、その安全な状況の時の呼吸の様子を倣って、ゆっくりとした、深い呼吸ができるように練習します。

そうして息を吐くことに意識して、ゆっくりと深い呼吸を頑張って続けていると、不思議なことが起こります。「安心感」てものがゆるゆると感じられてくるのです。

それは、身体の状態がココロにフィードバックされてくるのを実感することのできる素晴らしい瞬間でもあります。

こんなに良い効果をもった呼吸法ですが、治療が進むにつれ、記憶が整理されたり、洞察が進んで、過去のことを思い出したり、フラッシュバックや悪夢自体が減ってくるので、治療の中盤や後半にはそんなに話題になることはありません。特にPEの中での呼吸法は、本格的に回復するまでの松葉杖みたいな役割です。

自転車でいえば補助輪といってもいいかもしれません。

いらなくなったら捨ててもいいような、大事にとっとく人もたまにはいるかもしれないくらいの、位置づけです。

それでも、治療の最終セッションで、「呼吸法が何よりも役に立っています」と言う人はいて、それは呼吸法で自分の身体や心をコントロールできた、という心地良い感覚が得られたということに他ならないのですが、治療の中で得られた他の様々な成果をさておき、呼吸法が一番て、ってPEセラピストとしてはちょっとずっこける場面でもあります。

ずっこけながらも、共に喜びあっているのですが。

 

 

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トラウマPE心理療法

【食わず嫌い】全くもって感情的な問題

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

 

何年か前、アメリカのトラウマティックストレス学会で、PE(トラウマのための認知行動療法の一つです)にあからさまな嫌悪感を示したヴァン・デア・コーク(トラウマ治療の第一人者)にフォア(これまたトラウマ治療の第一人者でPEの開発者)が「PEにはこれだけのエビデンスがあるのにそれを認めないなんて、バカめが」みたいなことを言って、あわやつかみ合いになりかけた、みたいなちょっと笑ってしまうような話がありました。

ヴァン・デア・コーク先生はトラウマの治療の中では「EMDR推し」で、TFT(身体をごく優しく二本指でトントンとタッピングするリラクゼーション法)やヨガなど、身体からトラウマにアクセスする方法に関心があり、『身体はトラウマを記憶する』などをはじめ、多くのトラウマ関連の学術書を執筆されています。

先生は2011年に来日され、明治大学などで講演されたのですが(その当時、福島の原発事故の影響で来日を控える外国人が多い中でのことでしたので、ヴァン・デア・コーク先生のマゴコロというか、勇気に感銘を覚えました)、そこでもPEを揶揄して、「性急なトラウマ体験の言語化はかえってトラウマを深くする」と述べて、「呼吸やヨガ、タッピング、遊びなどこそが、自分で自分をコントロールする体験であり、回復につながるものである」と胸を張っていました。

どうやら本当にPEのことが嫌いそうなその様子に、むしろ愉快な気持ちになったくらいです。

PEでは決して性急に、もしくは無理やりトラウマを語らせたりしないし、むしろトラウマを(自分の身体を使って)語るということや、行動してみることで、自分自身の体感や実感を基盤にして回復する感じ、ヴァン・デア・コーク先生のいう「自分をコントロールする体験」と一緒なんだけどなぁと思ったりしています。

一方で、PEのセラピストの中でもEMDRについて、警戒心めいたものを持っている人がいます。すなわち、EMDRは記憶の処理の一つに眼球を左右に動かす、という手続きがあるのですが、あれがどうも幻惑的に見えるようで(実際、例のコインを左右に揺らす昭和の催眠術を彷彿とさせる動きであるのは否めないのですが)「あれがどういう機制でトラウマに効いているのかさっぱりわからないし、意味がないんじゃないか」という人もいます。

しかし臨床上では、大事な場面で、つまりその話題がその人の心の奥深くに実はつながっていて、それをなんとか言語化しようと奮闘している場面で、彼女、もしくは彼の目が左右、または斜め上下に忙しく、まるで床に置いた長持ちの中のあちらこちらをひっくり返しながらなにかを探しているかのように、動くのを見ることがあります。

その目の動きをみると、あの例の、目を左右に動かすEMDRと重なるものがあり、あの手続きは、まだ科学的な根拠がはっきりしないながらも、あながち的外れではないような感じがしています。

ちょっと話がそれましたが、PEをかたくなに拒否するヴァン・デア・コーク先生は、なんとなく感情的、というか、「食わず嫌い」のようにみえたのです。

 

私の知り合いに大変優れた保育士さんがいるのですが、彼女がいうには子どもの多くは、はじめからはブロッコリーを好まないそうです。しかし、大人としては、栄養価に富んだ、経済的にも優秀なブロッコリーを是非食べさせたいところですので、保育園では子どもの食わず嫌いを治そうと色々工夫することになります。

彼女によると、子どもにブロッコリーの栄養なんかについてこんこんと言い聞かせて説得しようとしても大抵は時間の無駄で、ましてや細かく刻んでハンバーグに入れたりする「ダマシ討ち」はさらに意味がない、とのことでした。それでは実際、彼女がどうしているかというと、子どもにブロッコリーは身体に良いということをさらりと述べた後は、食事の折々にブロッコリーのお皿をテーブルに載せておき、周りの大人や首尾よくブロッコリーが食べれるようになった年長の子どもたちが美味しくつまむのを見せるのだそうです。そうするといつの日か、子どもが自ら手を伸ばしてブロッコリーを取る日が来るのだ、と教えてくれました。

「食わず嫌いを治すコツは、」と彼女は話しました。「いつか必ず自分から手を伸ばしてブロッコリーを食べるようになる、と信じることなんです」。

 

いえいえ、あのフォア先生に信じて待てとは言ってませんよ。そんなオソレオオイこと、とてもとても。

 

●あのフォア先生の話☞こちら

●PEの話☞こちら

●EMDR体験記☞こちら

 

ではまた!

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