カテゴリー: 心理療法

サードプレイス心理療法

【カウンセリング入門】話すことは手段にもなります

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマです。

 

「心理のカウンセリングは話すこと自体が目的です」と高らかに宣言した舌の根の乾かぬ内にこんなこというのもなんですが、カウンセリングでは大抵、話すことを通じて向かっている方向性や目標があるものです。

 

初回面接とかインテーク面接とか呼ばれるものは、はじめてセラピーに訪れた人とセラピストが行うセッションですが、その中で、セラピストはその人の悩みなどを聞き、その人に関わる周辺情報を聴取する間に、その頭の中にはその人が今抱えている課題とかこれからの方向性(これが目標ですね)がざっくりと浮かんできます。

セラピストが理解したものと、方向性を患者さんに示して、患者さんもそれに同意(というよりも程度の差はあれ「腑に落ちた感じ」が必要です)すれば治療のはじまりとなります。

そんな小一時間程度で人間がざっくりとでもわかるはずがない、と感じるかもしれませんが、人間の悩みは驚くほどパターン化されている部分があって、セラピーを通じてたくさんの人に会っているとそのパターンを見つけ出しやすくなるものです。

精神科の診断名がそのパターンになる時があります。

発達障害やうつ、PTSD、双極性障害、強迫性障害、摂食障害とかをパターンとして考えてみてください。

また、ライフサイクルに伴う課題や葛藤などの心理学的なアプローチが理解を助けてくれることも多いです。例えば中年の危機とか母との葛藤とかそういうものです。

さらに、社会的環境の変化に伴うパターンもあります。育児の困難とか介護問題なんかはそれにはいるでしょう。

実際はこれらのパターンは複合的に絡み合っているものですが、そこからざっくりとした見立てとそれに対する対処が見えてきます。

 

そんな方向性を患者さんと共有したあとに、さぁ、いよいよはじめよう、となるのですが、よっぽどの事情の時を除いて、問題に対処するための●●心理療法にすぐに入っていくことはありません。

まずはセラピストと安心して話せることや、自分の感情や考えを言語化する練習から入っていくわけです。

ここで大事なのは、「しっかりと自分の話ができた」という感覚が安心感と認知機能の増大(頭が回ってくる、という意味です)をもたらします。

なので、しっかり話しができた段階でずいぶんと症状消失とか悩みが解決している人もいますが、それでも人の悩みは深いもので、それから問題に焦点をあてた●●心理療法を行う段階に入る方も多々あります。

そして、この時点で患者さんとセラピストはしっかり共通の目標に向かっていて、お話するということはすでに目的ではなく、手段となっているのです

 

時折、「心理のカウンセリングにちょっと通ってみたけど、カウンセラーは聞いてくれるだけでなんにも言ってくれないので疲れて(または効果がないって思って)行かなくなりました」

という話を聞きます。

なぜこういうことが起こるのでしょう。

先ほどの話からすると、セラピストはしっかり話すということを通じて改善を促している最中だったのかもしれません。

もしくは、セラピストは見立て自体がわかっていなくて、とりあえずお話を聞いて、患者さんが自発的に改善してくれないかなーと神に願っている最中だったのかもしれません。

 

どちらにしても、そういう不満だったり、違和感だったりするのをセッションの中で話してもらうのは大切なことです。セラピストは(というより私は)、パターンがあるものに対しては割合と知っているものですが、今ここで患者さんが感じているその人固有の感じ方や考え方に対しては(これまた驚くほどに)疎いことがあります。

ネガティブなことであってもそれを言葉で伝えてくださると助かります。

言葉で伝えてくれるとセラピストも改善することができるのです。

 

ではまた。

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トラウマ心理療法

【トラウマ記憶】いわゆるエピソード記憶との違い

こんにちは。

飯田橋にあるカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマです。

フォア先生は「トラウマ記憶とは怖い映画のようなものだ」といいましたが、そういう風に考えるといろいろ合点がいくことはあります。

怖い映画をみた後に、思い出したくないのに思い出してしまったり、そのせいで怖くて夜眠れなかったり、そんな状況は容易に想像できると思います。

この、思い出したくないのに勝手に記憶が蘇ったり、気が張って眠りが浅くなるような現象は、それぞれ侵入症状、過覚醒症状と呼ばれ、PTSDの症状の一つです。

ただ臨床の場面では「怖い映画」、というだけでは十分に説明のつかない部分はあります。トラウマ記憶では、その記憶がバラバラになってストーリーという形を成していなかったり、穴があったりすることも少なくはありません。

つまり、ちゃんと(こういう言い方も変ですが)「怖い映画」にさえなっていないのです。

これを説明しているのが英国の心理学者のBrewinで、彼によると、トラウマ記憶は言語的に接近できる記憶として保持されているのではなく、意識されず、状況に応じて接近できるものだそうです(いきなり難しくなった感は否めませんが、ちょっと辛抱してしばらくおつきあい下さい)。

Brewinのいう言語的に接近できる記憶、とはなんでしょうか。

それは「小学生の夏休みにおじいちゃんの家に行った時のこと」とか「12歳の誕生日の悲しい思い出」とか「●●の思い出」として語れる記憶です。これをエピソード記憶と呼んでいます。エピソード記憶はいわば心の引き出しにしまっておける記憶です。そして自分が思い出したいときには出して、いい気持ちを味わったり、時には苦い思いを味わいます。

Brewinのいうトラウマ記憶はそれとは違い、2歳以前の子どもの頃の記憶に似て非言語的なイメージや身体的な感覚で保存されているものに似ています。この頃の記憶の在り方を小児期健忘と呼んでいます。文字通り忘れてしまうけど、なんらかの加減で嗅覚だったり、身体感覚だったり、感覚の一部がふと戻ってきたりするような記憶のようなものです。

トラウマ記憶はエピソード記憶ではなくて、小児期健忘の時の記憶に似ているのですね。身体的感覚で保存されていることや、状況に応じてしか(その状況はほとんど自分ではコントロール不可能です)思い出すことができないなど、いわば無意識の領域に近いのかもしれません。

このように取り出すのが難しいと思えるトラウマ記憶ですが、言葉にする作業の中で、時には驚くほど鮮明なイメージが現れることがあります。私たちが普段の生活の中では見落としているような、例えば、通りがかりの家の表札の名前だったり、公衆電話に刻印されたコードの並び、店頭に置かれた傘の色や柄、などが文字通り、生々しく蘇ります。

これらのいわば身体に刻み付けられた記憶を言葉として表現していくことは並大抵のことではありませんが、それができたとき、しばしば患者さんは「自分がこうして話せるとは思わなかった」と驚きを込めて話します。

往々にして言葉をもたないトラウマ記憶を、言語化していくこと自体が治療的に働いているののです。

そして、言葉の形でストーリーとして紡がれたトラウマ記憶はエピソード記憶となって、私たちを悩ますことはなく、ちゃんと心の引き出しにしまっておけるようになるのです。

ではまた!

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PE心理療法

【フォア先生】トラウマストーリーを何度も話すことについて、有無を言わせない切り口

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマです。

私は2012年のクリスマス前、ペンシルバニア大学のCTSA(Center for the Treatment and Study for Anxiety)というところで約3週間、PE(持続エクスポージャー療法)というトラウマ焦点化した心理療法について学んでいました。

CTSAにはエドナ・フォア先生というPEを開発したエライ先生がいるのです。

どれくらいエライかというと、CTSAはもちろんアメリカにある施設なので、そこに勤めるサイコロジストたちは(アメリカ風に)フレンドリーな感じで「サンディー」や「ディビット」とお互いをファーストネームで呼び合っている中、フォア先生だけは「ドクターフォア」と呼ばれているくらいの、別格な扱いなくらいエライのです。

フォア先生は見た目もなんというか、インパクトがあります。GAPなんかでは絶対売っていないような、ビビッドなカラーのレースの装飾のついた、ツヤのある黒のふんわりしたロングドレスを着ています。

そうしてダイエットのためと称してトマトの地中海風サラダなんかを食べながら講義したりしています。

大体講義をするといっても本当に重要なポイントだけなのですが、フォア先生が教室に入ってきて、口を開くと、先生の周りに引力が集まるような感じになるのです。それに、フォア先生はイスラエル出身なので、その独特な訛りのある英語でゆっくりと話す様子もなんだか特別な雰囲気です。

PEではトラウマの話を何度も話す、という治療手順があります。

この治療手順が患者さんの力を引き出す本当に大きな効果があるのですが、一方では何度もトラウマの話をさせるのはかわいそうじゃないか、という意見も多くあります。

この日はこのトラウマの話を何度も話す、という(物議をかもしがちな)治療手順についてフォア先生の講義がありました。

フォア先生はいつものように黒が基調の、ところどころがタマムシ色に光っているボリュームのあるロングドレスを着て現れました。

そして、おもむろに口を開くと、「トラウマ記憶とは頭の中にある怖い映画のようなものだ」と厳かにおっしゃいました。

フォア先生は言います。「では、お前たちに聞くが、怖い映画をみるとどんな気持ちになるかい?」

参加者は答えます。「怖い気持ちになります」

フォア先生「そうだね。では、その怖い映画を100回みるとどんな気持ちになるかい?」

参加者「・・・・慣れます」

フォア先生「そう、慣れて、退屈にさえなるかもしれないね」

この短いやりとりだけで参加者一同は、納得、の雰囲気に包まれました。フォア先生にかかると、トラウマを何回も話すことに関わる例の物議が一瞬で終わってしまったのです。

実際のPEでは100回も話したりはしませんし、もちろんやみくもに話させるということもしません。

でもトラウマ記憶は怖い映画と似ているって知っていると少しは役に立つかなと思いました。

 

 

ではまた!

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トラウマPE心理療法

【自然治癒に倣う】習慣が正しい、とは限らない件について

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマです。

 

転んで足のひざをすりむいたとき、どのように手当てをしていますか。

ちょっと前には「赤チン」というものがありましたね。

水道水で汚れなどを落としたあと、赤チンをつけることもあるし、他には青いキャップの消毒液をシュシュっとふりかけたりして、ガーゼなどを貼って傷口を保護、乾燥させたものです。

でも今は、消毒液をつけたり、傷口を乾燥させることはせず、そのまま傷口を保護するテープを貼ったり、ラップで覆ったりするとよい、ということが知られています。

「湿潤療法」と呼ぶらしいです。

実は、けがをしたとき、傷口では血小板や好中球、マクロファージが働いて、絶妙なタイミングで様々な「細胞成長因子」が分泌され、これにより細胞が活性化し傷が治る、というメカニズムがわかってきたのですね。

 

このように傷が自然に治るとはどういうことか、丁寧な観察や研究からわかってきたことで私たちの手当ての方法は変わってきました。

 

 

それでは心の傷とか、トラウマ、PTSDと呼ばれるものではどうでしょうか。

 

なにかとてもショックなことがあった時、それが自分にとって、または周りの人が受け止めきれなかったりするものであった場合に、しばしば治療者もふくめ、人はこのように言うかもしれません。

「すんだことは忘れなさい」

「いつまでも過去にとらわれるべきではない」

「前を向いて」

 

しかし、PTSDが自然治癒する経過についてはよく研究されていて、そのとき人は過去のショックな出来事について話したり、それについて再び考えたりすること、それをきちんと受け止めてもらえるサポートがあることが、その後の回復に促進的であると知られています。

トラウマについて、思い出したり、話したり、そこからの感情を避けないことや、「世界は危ないところだ」とか「自分は無力だ」といったトラウマからの考え方が、今も実際にそうなのか、腰を据えて考えていくことが、PTSDの回復のための要素であるらしいのです。

 

すなわち、過去のことは忘れなさい的助言とは逆のことが必要みたいです。

 

ではまた。

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トラウマ心理療法

【EMDR 個人的な体験、それから】個人的な体験からの普遍的な知識

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングルーム、サードプレイスのナカヤマミチです。

 

約10年前、EMDRのワークショップに参加し、そこで流れ出てしまった自分の涙を、同じ会場にいる上司にさとらせまいと、四苦八苦している私です。

●どうしてこんな状況になっているのか知りたい→こちらへ

 

上司は幸いなことに私の涙の決壊には気がついてはいないようでした。

というよりも普通に考えると、上司だってその時は患者役であれ、治療者役であれ、自分自身のロールプレイに集中していたのだと思います。

 

治療者役の先生は真剣な表情で指を左右に振って、その場にとどまるように優しく声がけをしてくれています。

 

その間、私は自分の内側は猛烈に、なんというか、足掻いている、という状態でしょうか。

私はトラウマとつながっている不快なイメージ(そしてそれが涙の原因だと私はニラんでいました)が頭の真ん中を占領してしまわないように、頭の中の引き出しの中をやたらにかきまわして、なにか他のもの、自分に必要な別のなにかを必死に探していました。

 

相変わらず、治療者役の先生は指を左右に振っています。そして患者役の私は涙を流しながらその指を目で追っています。

 

私は引き出しの中をひっかきまわしていましたが、なにを探しているのかは自分でもしかとはわかりません。それでも、あれでもないこれでもないと、引きずり出してはポイポイ投げちらかしています。

何回かつかんでは投げつかんでは投げ、をやっていた時、ふいに恩師の顔が浮かびました。私に初めてカウンセリングについて教えてくれた先生でした。

 

予想外の顔が出てきて、ほっとしたことと、嬉しさで一層涙があふれてきました。

ふと、こんなに涙を流して大丈夫なのか、という理性ともなんともつかない声がかすかに聞こえましたが、この涙は心地がよくて、それからの連想は止まりませんでした。

今までの人生のあちこちで出会い、私を支えてくれた人々のあたたかい顔が、ぽこんぽこんと浮かんできては、それらが木の実のようになりはじめました。いつの間にか私の頭の周りには枝が生え、葉も生い茂っていて、木の実はその間に心地良くぶら下がっています。

そうして足のほうは、木の根のように床にしっかりと根を張っているのを実にリアルに感じています(しつこいようですが、実際の私は椅子に座って治療者の指先を追っています)。

 

「治療」が終わって、講師の先生は穏やかに「ロールプレイでどんな体験をされましたか」と尋ねてくれました。治療者役の先生は幾分か疲れた顔をしています。多分、滂沱の涙を流す私を心配したに違いありません。

私はロールプレイの最中に起こっていたことを詳しく話し、それはとても面白くて楽しい体験だったと伝えました。先生たちはこの劇的ともいえる展開に一緒になって喜んで下さいました。

トラウマ?

私のトラウマはどこかに飛んで行ってしまいました。

 

 

この短い、時間にして15分も満たないトラウマの処理の体験の最中、きっかけはなんであれ、自分の内側から普段気がついていない(びっくりするような!)力が作用して、ポジティブなイメージが作り出されました。

このことから私は、人が本来的に持つ回復への志向性を直感的に知れたように思います。

 

 

そうして今はいろんなめぐりあわせで私はPEのセラピストとしてトラウマ治療に関わっています。

PEのセッションの中でも、人々は時に驚くような洞察力でトラウマを乗り越えていきます。それを繰り返し目の当たりにすることで、あのEMDRのワークショップの時に得た直観は実感になりました。

 

人にはトラウマから回復しようとする力が本来的に備わっているということです。

これに尽きます。

●市井先生(EMDRの権威)にPEについて伝えたい☞【PE】そのネーミングセンスがいかがなものか問題

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