カテゴリー: 感情調整

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【STAIR】感情調整からの、対人関係

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

 

STAIR(Skills Training in Affective and Interpersonal Regulation:感情調整と対人関係のためのスキルトレーニング)は認知行動療法の一つで、主に子ども時代の虐待やDV被害などの対人トラウマから引き起こされる感情調整や対人関係の困難に焦点をあてた心理療法です。

幼少期のトラウマを抱えた女性98人を対象とした、「現在困っていること」に関する調査(Levitt & Cloitre, 2005)では、女性たちが困っていることのナンバー1は対人関係の問題(67%)でした。その次にPTSDのなにかしらの症状(59%)、感情の問題(31%)と続いています。

調査でも示唆されているように、セラピーに来る人は、どちらかというと感情(怒り)の爆発で悩んでいるという人を除けば、自分の感情で困っていると訴える人は少ないのです。大抵の場合、感情はあまり感じないようにフラットになっているか、時にはスイッチを切った状態になっていることが多いからです。

そんな訳で、多くの人は対人関係が困難を感じるきっかけであり、それをなんとかしたいと思ってセラピーに来るので、STAIRの対人関係のセッションを学ぶ前の、感情調整のセッションでは、ちょっと焦れるような感じになるかもしれません。

そんな時でも感情調整を学ぶことはとても意味があることだと思っています。

なぜなら、子ども時代のトラウマを経験した人にとって、対人関係とはなにかの「コツ」とか考え方ひとつで乗り切れるものではないからです。対人関係には感情がつきもので、その中で生じる自分の感情をより良く受け止める力がどうしても必要になります。

もう一つ、もっと重要なことがあります。

対人関係の基礎となるものが、感情のやりとりである、ということです。

私たちは、子どもの頃に感じる自然な感情を相手に伝えて、それを受け取ってもらう、ということを繰り返して大人になっていきます。

つまり、子どもの頃は、うれしいことがあれば、共に喜んでもらい、悲しいことがあれば慰めてもらう。腹が立ったらなだめてもらい、そして、困ったことがあれば助けが差し延べられます。すなわち、感情は私たちの内から自然に出てくるものですが、それは養育者などの適切な相手によって、受け止められ、調整されるものです。それが何度も行われるうちに、自分自身でも感情をうまく受け止められるようになりますし、そうできるようになると、自分の気持ちを相手に伝える段になっても、自然に(つまり、無理やりに押さえつけたり、または爆発させずに)、さらりと伝えることができるようになるのです。

さらりと伝えられた気持ちは相手にも心地よく受け止められるものですから、このキャッチボールはいい循環で続いていくものです。

 

子ども時代のトラウマとは、うれしいことがあっても共に喜んでもらった経験がない、ということです。

泣くときは一人でしたし、怒りはいつまでも自分の中にあるものでした。そして、だれかに、助けてもらったことがないので、自分が困っていることにも気が付いていませんでした。

このような感情状態が子ども時代のトラウマの核にあるものです。

 

STAIRの中で感情の一つひとつに丁寧に気づいて、うまくそれを表現したりする練習をすることで少しづつ感情のやり取り、のようなものがわかってくると思います。それが今の人間関係の基礎となっていくように練習していくのです。

セラピーの中では、決して否定や批判をされることはありません。あなたの考え方や感じ方が一番大切にされるのが、セラピーでもあるのです。

 

●STAIRについてもっと☞【複雑性PTSD】STAIR誕生!【感情調整と対人関係のためのスキルトレーニング】

●感情調整についてもっと☞【STAIR】感情調整は感情の役割を知ることからはじまります

●感情を感じない☞【感情調整】感情が出すぎる人ではなく、出ない人の話

●感情調整こぼれ話☞【感情調整】クリエイティブな気持ちの収め方

 

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サードプレイスストレス感情調整

【感情調整】クリエイティブな気持ちの収め方

こんにちは。

飯田橋のカウンセリング・オフィス、サードプレイスのナカヤマです。

今回の記事にはいくつかの不適切な表現がみられますが、どうぞ許してください。ノリコさんのことについて書くときには、きわどい表現を避けては通れないからです。

 

ノリコさんは南フランスで生活する60代の女性です。夏のシーズンになると日本に帰ってきて、サードプレイスに立ち寄って話しをしていかれます。

南フランスでノリコさんが何をしているかというと、絵を描いたり、モノを作ったりして生活しています。だから周りの人からは「クリエイティブな人」と見られています。確かにクリエイティブな女性なのですが、ノリコさんのクリエイティビティーはそこにとどまることがありません。ノリコさんは気持ちの収め方もまた、クリエイティブなのです。

 

アジア人の女性が海外で暮らしていると様々な苦労や理不尽なことに見舞われます。そのため、ノリコさんは腹を立てることに事欠かないといいます。

ある日、ノリコさんの自宅近くに新しいスーパー・マーケットがオープンしたときのことです。近くの通りでアフリカ系とみられる男性がそのスーパーのチラシを配っていました。ノリコさんがそのチラシが欲しくて手をだすと、男はノリコさんの手にチラシを渡すのではなく、それをつと道に落とすと、顎をしゃくって「道から拾い上げろ」というジェスチャーをしたそうです。

「このクソ男が」

このような屈辱的な仕打ちを受けて、ノリコさんは怒りました。

「このクソ男が、私はお前が耳をふさぎたくなるような、そしてお願いだからこれ以上言わないでくれと懇願するほどの悪態を知っているけど、今ここでそれを言わないでおいてやる、ありがたく思え。とココロの中で言ったね」と話しました。

いくら相手が失礼な態度をとったとしても、男に暴言(それもノリコさん流の)を浴びせたとしたら、彼女になにかの危害が及ぶかもしれません。私はノリコさんがその時、わめきたい気持ちを抑えて踏みとどまれたことを評価しました。

「それにしても、そんな失礼な態度をとられてどうやって自分の腹を収めたんですか」と私が聞くと、ノリコさんはウケケケケ、と笑って、

「アフリカ大陸を沈めることにした」と言い放ちました。

あまりに話しが飛躍したように思えた私が言葉を失っていると、ノリコさんは続けて、

「あいつらはみーんなミソジスト(女性嫌い)でメイルショービニスト(男性優位主義)のブタ野郎だからね」

と自信マンマンに言いました。そしてその後、ちょっぴり残念そうに「私、まだエジプトに行ったことがないからアフリカ大陸ごと沈めてしまうのはどうかなってちょっと考えたんだけど、背に腹は代えられないからね」と付け足しました。

そこでやっとのことで態勢を整えた私は、「そういうことってよくされているんですか」と質問しました(そういうことって国や大陸を沈める、という行為のことです)。

するとノリコさんはこともなげに「ああ、東ヨーロッパはもうないよ。あいつらティーフ(盗人)ばかりだから」と教えてくれました。

「南米も北米もすでに沈んでるよ」「ブラジル人はみんなレイジーだし、アメリカにはすごく珍妙なヘアスタイルした大統領がいるからね、あれには耐えられなかった」。そして、思い出したように「まだカナダはとってあるけど」と言いました。なんの慰めにもならない気がしました。

それを聞いて私は、ちょっとドキドキしながら言いかけました「そんなに沈めたら世界がなくなってしまうんじゃぁ・・」。

するとノリコさんが「オセアニアとかアジアはまだあるよ。アジアの人は優しいしね」と言うので、私は少しほっとしながら「そうか、良かった。私まだ中国の万里の長城に行ったことないので、いつか行けたらいいなって思っているんです」と言うと、ノリコさんは私に憐憫の表情を向けてこう言いました。

「中国か、あそこに関しては今考え中なんだ。私の言っている意味、わかるじゃろ(ノリコさんは日本の瀬戸内エリア出身です)。」

 

こうやってひとしきり話していったあと、世界の大陸の半分程度を既に沈めたノリコさんは爽やかに帰っていきました。

例えば「怒り」のようなネガティブな感情があっても、それを感じないようにしたり、抑えなければならない、と思っている人は実に沢山います。でも実際は、感情は我慢したり抑えたりすると、なくなるどころか、恨みのようになっていつまでも長く続いたり、自責感となって自分を苦しめたりするものです。

感情調整の方法は様々です。呼吸法をしたり、頭の中で数を数えるやり方が効く人もいます。また、友人に話したり、自分の好きなことをする時間をとることで気持ちを受け止められる人もいます。そして、ユーモアもまた、感情調整にはとても助けになるものです。

ユーモアはネガティブな感情を抑えるためにあるのではなく、ネガティブな感情と共にあることをノリコさんは教えてくれます。

今年の夏も、ノリコさんに会えることを楽しみにしています。

 

こちらもどうぞ

●感情は感じることが大事☞【STAIR】感情調整は感情の役割を知ることからはじまります

●ものは取りよう☞これもまた【認知行動療法】

●翌年のノリコさん☞【批判的読書術】

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トラウマ感情調整

【堪忍袋】の中身、怒りと傷つき

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

 

アニメ『巨人の星』の星一徹の行動について、(仮に怒ってたとしても)何もちゃぶ台を返す必要はない。自分の感情は言葉で伝えたり、他の何かの手段で表現できるはずだ、というのが、以前の記事の話でした(これだけのことを説明するのに相当クドクドと書いてしまいました。「薄味」がきいて呆れます)。

 

私たちは「堪忍袋」というものを持っているそうです。堪忍袋というのは、腹が立つことがあっても、この中に入れて紐を結わえてしまうと、それをなかったことにできたり、我慢することができる貯蔵庫のようなものです(布製らしいです)。

堪忍袋はお手軽で便利そうではありますが、長い目でみるといろいろとデメリットもあります。まず、堪忍袋にはある一定の容量があるため、容量が一杯になると結んでいた紐がプチンと切れて、今までためていた怒りが派手に飛び出す仕組みがあるのですが、これがどうもいけません。またその容量も人によってずいぶん個人差がありそうです。加えて、堪忍袋がいっぱいになった「気分」というか、そういう体で、ちょくちょく爆発させてくるハタ迷惑な確信犯もいるようです。

実は、堪忍袋の一番の欠陥といえるのは、その袋の中に入るのは「怒り」だけではない、ということです。

むしろ「怒り」以外のものが一緒くたに入れられているのに、それを「怒り」と勘違いしているのかもしれません(嫌な気持ちは「怒り」の感情として認識されることが多いのですが、「怒り」にしてみればこれは心外なことでしょう)。

 

そんなんで、星一徹の話しに戻ります。

彼の堪忍袋には何が入っていたのでしょうか。

ウィキペディアによると、星一徹は戦前、野球選手としてプロ野球界に在籍していましたが、従軍中に肩を壊し、引退。日雇い労働者となりますが、アルコールに溺れる日々を過ごすようになります。さらに妻・春江の死を経て、息子・飛馬に対して猛烈な野球教育に傾倒するに至っています。

割と大変な人生です。

ちゃぶ台返しをしたときの一徹の「堪忍袋」の中には、自分の野球人生に挫折した苦しみや悔しさ、今の生活における屈辱感、妻を亡くした喪失感や悲しみ、息子を通してもう一度自分を輝かせたいという希望や失敗に対する怖れ、そしてもしかしたら、彼の戦闘経験の記憶からくる恐怖、などが全部一緒に入っていたのかもしれません。

でもそれらの感情に比べると「怒り」はさほど入っていないようです。

実は、殊更に男性にとって、傷ついた気持ちを認めることはとても難しいことなのです。ある人は傷ついた気持ちをアルコールで麻痺させて感じさせないようにしたり、またある人はそれを「怒り」として、他者に当たったり、ちゃぶ台に当たったりして表現します。でも、傷ついた気持ちを「怒り」として表現しても、癒えることはありません。むしろ、自分の行動が引き起こした結果:泣いている子どもたちであったり、ぐちゃぐちゃになっている部屋を見て、もっと傷つき、落ち込んだ気持ちになるのです。

 

このように、「怒り」はしばしば「傷つき」と混同されて感じられることがあります。彼にとっては大変苦しいことでしょう。

だからといって、ちゃぶ台をひっくり返してもいいよ、とはやっぱり言いません。

それにアルコールや薬物の摂取は、堪忍袋の容量を増やすように見せかけて、むしろ爆発を大きくしたり、すごく感じ悪くしたりしますので、それもやっぱりお勧めしません。

 

お勧めするのは、勇気をもって自分の気持ちを認めて、助けを求めることです。

 

それには「どえらい勇気」がいるってことも理解しています。

それでも、あえてその道をすすめるのは、そこにしか道はないからです。

 

●この記事は前回の記事の続きです☞【ちゃぶ台返し】と怒りと2歳児と

 

怒りの感情について、こちらもどうぞ

●怒りは考えによってより燃え盛る☞【感情調整】怒りそのものなような、そのようにみえるような

●怒りのコントロール法☞【タイムアウト】感情のコントロールについて【いつものパターンになっていませんか?】

●お茶飲んで話を聞いてもらうのもいいですよ☞【老和尚と鬼】怒りのコントロール、アンガーマネージメントともいいます

 

ではまた!

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トラウマ感情調整

【ちゃぶ台返し】と怒りと2歳児と

こんにちは。

飯田橋にあるカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

 

アニメ『巨人の星』で、星飛雄馬の父親はちゃぶ台返しを得意技としていました。それにしても、彼は一体全体なんだってあんなに腹を立てていたのでしょうか。

おかずが不味かったのでしょうか。

貧乏ゆえのストレスでしょうか。

飛雄馬がなにか悪いことをしたからでしょうか。

それとも、本人の器が小さいのでしょうか。

いろいろと考えてみますが、ちゃぶ台返しのあのシーンのインパクトが強すぎて、あそこに至るきっかけとかそんなのが忘却の彼方に行ってしまっていることに気が付きます。そもそも、ちゃぶ台をひっくり返して、飛雄馬のお姉さんが少ない家計をやりくりして揃えた材料で作った心づくしの夕食を台無しにしてもいいってことはないのです。

 

星一徹(父親の名前です)がなぜ、ちゃぶ台返しをするに至ったのか、その答えのヒントは保育園にありました。

臨床心理学を学ぶ大学院で、赤ちゃん心理学や子ども心理学などをテーマにするゼミに入ると、学生たちは保育園に行って、子どもたちの発達を観察する機会が得られたりします。そこで実習と称して、ベテランの保育士の先生たちのお手伝いをしたり、子どもたちと遊んだり、ナメられたりしながら過ごすのです。

特に大変なのは2歳児クラスです。その他のクラス、例えば0歳児クラスは、こういってはなんですが、ほぼ寝たきりで、動きもトロいので、学生のペースでお世話ができますし、年長さんクラスになると、今度は子どもたちのほうが学生の使い方を心得ていて、一緒に遊んでもらったり、絵本を読んでもらったりしています。

2歳児クラスの子どもたちは、動きがすばしっこくなってつかまえにくくなっている上に、空腹や疲れなどの身体の変化がもろに気分にでていきなり不機嫌になったりします。また、仲間同士でもめごとがあると、アクマのようになって、手が出たり、足が出たり、口が出たりで(2歳児クラスに入ると、よっぽど危機管理能力の優れている子でない限り、1回や2回は噛んだり噛まれたり、という事件に巻き込まれます)その場が一気にカオスになることもしばしばです。2歳児クラスを担当した学生たちは夕方には心身ともに疲弊して帰るのが常でした。

学生たちがボロボロになっている一方で、先生たちは落ち着いたもので、なぜなら2歳児たちが癇癪を起したり、荒れることは既にオリコミ済みのことだからです。つまり、2歳児の子どもは様々な気持ちが分化し、自分の主張も芽生えてきている時期ですが、それを表現する術がまだ上手ではないので、つい攻撃的な行動に出てしまう、ということを承知しているのです。

子どもの認知的な発達が進み、悲しい、悔しい、いやだ、などの自分の気持ちがきちんと言語化できるようになったり、社会的な発達によって仲間と協力して遊んだり、作業ができるようになってくると、手が出たり、足が出たり、口がでたり(これを行動化と呼んでいます)することは、ほとんど見られなくなります。プロの先生たちは、2歳児のここで、発達を促すような適切な関わりをすることによって、約1年後には落ち着いた(そして実り多い)年長さんになれるということをよく知っています。

 

2歳児クラスで四苦八苦する学生のように、多くの人は「怒り」にあうと恐れ、疲弊するものです。

なぜなら、「怒り」は、人を傷つけ、自分を傷つける、そうして他者との関係性を傷つけ、社会での自分の居場所をなくしてしまうとされているからです。「怒り」の感情は、社会的なタブーとなっている側面があります。

そういうこともあってむしろ逆に、「怒り」のそのような触れ難い性質を意識的にもしくは無意識に利用する人もいます。すなわち「怒り」は田舎のあぜ道にドーンと高速道路を通すような効果があって、その勢いであっという間に自分の主張(しばしばそれはとても理不尽なものです)を通してしまうのです。

 

しかし、怒り=(対象を傷つける)攻撃、ではないことは、2歳児クラスの子どもたちの例から私たちは既に学んでいます。

怒りを感じるという内的な体験と、攻撃という行動をするということは本来は別のことであるし、そもそも「怒り」は一見「怒り」に見えるものの、それはまた他の感情である可能性もあります。

子どもたちは「悔しい」「悲しい」といった気持ちの他に「一緒にいたい」「近寄りたい」などの気持ちも「怒り」や癇癪として行動化していました。そして、それらはそれぞれちがった、適切な行動にすることが可能です。例えば言葉で話す、文章にする、絵やアートで表現する、人とのつながりや共にいることを求めることなどを通して、私たちは攻撃以外の他の方法でもって自分の感情を表現することができます。

 

星一徹は怒って、ちゃぶ台をひっくり返す、という行動の代わりに、どんなことができたでしょうか。またその時の「怒り」のように見えるもの、それって本当はどんな気持ちがあったのでしょうか。

 

この『巨人の星』の話は続きます。

【堪忍袋】の中身、怒りと傷つき

 

 

●怒りは考えによってより燃え盛る☞【感情調整】怒りそのものなような、そのようにみえるような

●怒りのコントロール法☞【タイムアウト】感情のコントロールについて【いつものパターンになっていませんか?】

●お茶飲んで話を聞いてもらうのもいいですよ☞【老和尚と鬼】怒りのコントロール、アンガーマネージメントともいいます

 

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PE感情調整

【モヤモヤした感じ】持続エクスポージャー療法の理論

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

 

持続エクスポージャー療法(PE)はペンシルバニア大学精神科教授(心理学)のエドナ・フォア博士(心理学)とその同僚の開発した心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療のための心理療法です。PEでは1回90分のセッションを、概ね10回から15回毎週実施します。

PEは「情動処理理論(Emotional processing theory)」と不安のための「エクスポージャー療法」という2つの親から生まれました。すなわち、理論的な根拠を情動処理理論に置き、中心的な手続きはエクスポージャー療法という不安や恐怖を軽減する行動療法に依っているのです。「持続エクスポージャー療法」という名前に表されるように、PEはその手続きにスポットライトが当たりがちなのですが、実は回復のカギとなるのは情動処理によるところが大きいと感じています。

エクスポージャー療法自体、長い歴史をもっています。詳しくは割愛しますが、人が恐怖と感じている「もの」や「場所」にだんだん慣れていく手法はこのような行動療法の中ですでに確立しています。例えば、私の「ヘビ恐怖」を治療するために考えられるのは、まずは可愛らしいヘビのイラストなんかを見ることからはじめて、次第にヘビの赤ちゃんの画像や、比較的穏やかそうな色合いのヘビを経て、間近でニシキヘビ(そう、私はコブラ系ではなくニシキヘビ系がダメなのです)を観察する、みたいな治療計画でしょう(やりたくないです)。

 

ところで今日は、PEのもう一人の親、情動処理理論の話です。

フォア先生がPEを開発しようとした最初のきっかけは「何故(レイプのような)不快な記憶はフラッシュバックしたりするのに、いい記憶にはそれがないのだろう」という疑問だったそうです。つづけてフォア先生は、「私の結婚式は最高に幸せだったのに、その記憶が勝手に蘇ってくることがないのは不思議なことだった」と述べています。

このエピソードに、フォア先生って案外ロマンチストなんだなぁ、と前のめりになりかけて、でもこれは彼女のお得意のたとえ話に違いない、と思い直した次第です。面白そうなお話には、私はいつも乗せられてしまうのですが、たしかに、楽しい記憶と嫌な記憶はどう違うのか考えてみることは価値がありそうです。

 

楽しい記憶には、感覚的、または直感的なイメージですが、「スッキリした感じ」があるのではないでしょうか。出来事があって、それに伴ううれしい感情があり、それに胸が広がるような心地よい身体の感じがストレートにつながっている感じです。「ああ、楽しかった!」と一言で言い表せる、ある種の潔さがポジティブな経験にはあります。

それに対して、ネガティブな記憶はずっとごちゃごちゃしています。日常生活レベルでは「モヤモヤした感じ」と表現されることが多いかもしれません。

 

「モヤモヤした感じ」とは例えば、こういうことです。

あなたはある会社で派遣社員として働いています。パソコンに向かって作業していると、正社員である先輩に話しかけられました。「いいよなぁ、独身の人は気楽で。俺なんか子どもも生まれたし、家のローンだって大変なんだよ」と嘆息しています。あなたは冗談めかして「そんなぁ、私なんてボロアパートでボッチですよ!」と返します。笑いながらも胸のあたりがぎゅっとして、顔が火照っているのを感じます。会社からの帰り道では涙があふれそうでした。

家についてもなかなか気持ちが収まりません。家事が手につかないし、イライラしています。

 

実はこの「モヤモヤした感じ」が解決する過程、それこそが情動(emotion)処理理論で説明されていることです。

すなわち、あなたはモヤモヤを抱えつつも、お風呂に入ったり、ご飯を食べたりして、その日の体験を考え直しているうちに自分の気持ち(emotion)に気づくことがあるでしょう。あなたは実際「自分は傷ついている」ということに思い当たります。それに、あのやりとりは、自分にとっては屈辱的で腹が立つものであった、ということもわかりました。

その時の感情が明らかになると、先輩との会話の中で、あなたがひそかに傷つき腹を立てていたということと、その感情とは相反する自分の言動があったこと、それ故、身体に違和感を感じていた、ということが一本の線のようにつながって、ストンと合点がいきました。あなたはひとり言をいいます「嫌味な奴!」。そうするとちょっと胸のすくような感じがありました。

このように、自分の感情を発見することにより、自分の不快な記憶が、すっきりと了解可能なものになるのです。

 

情動(emotion)処理理論では自分自身の感情(emotion)の発見をとても重視しています。感情の真の気づきこそが出来事のストーリーとその時の自分の反応や身体の感じを結びつける、不可欠な要となるからです。

究極にモヤモヤしているはずであろうトラウマ的体験でも同様に、やはり自分の真の感情を見つけ、触れていくことがセラピーの中で必須な作業になります。もちろん、なまやさしいことではありませんが、やりがいのある作業でもあります。セラピストもあなたと一緒に、よきサポーターとして力を尽くします。

 

 

今日のお話はイマイチと思われた方も、私がもっと年をとってフォア先生ぐらいにおばあちゃん(失礼!)になったら、お話もきっと、もっと面白くなるはずなので、しばらくの間お付き合いください。

 

 

ではまた!

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