カテゴリー: PE

トラウマPE

記憶の貯め方

こんにちは。

飯田橋のカウンセリング・オフィス、サードプレイスのナカヤマです。



トラウマ的な出来事は、いつも外からやってきます。

震災も事故も犯罪被害も虐待もDVもみんな私たちの人生に突然現れて、私たちを苦しめるものです。

そしてそれらの怖い記憶はPTSDとなって私たちを長い間悩ませることもあります。


ここである種の、不条理めいたものを感じることがあるかもしれません。つまり、私たちが苦しんでいるのはトラウマのせい(より具体的にいうと、地球の地殻変動のせいだったり、不注意なドライバーのせいだったり、犯罪者のせいだったり、未熟で至らない親のせいだったり、モラハラな配偶者のせい)なのに、苦しんでいるのは私たちの方で、その恐怖の記憶を「治療」しなければならなかったり「改善」しなければならなかったり「回復」しなければならないのは被害者である私たちである、という不条理です。

「なぜ、私が?」「なぜ私がこんな目に遭わなければいけないのだろう」このような問いが、繰り返し浮かんでくることもあるでしょう。


一方で、PTSDをPTSDたらしめているのは、私たちの記憶の保存方法によってだということも知られています。

すなわちトラウマになっている記憶とは、一言でいうと、整理されていない記憶のことで、PTSDの人はその整理されていない記憶から生じたフラッシュバックや悪夢などの症状に苦しんでいるのです。あまりにも膨大な情報が含まれた体験が、整理されずに残っているものがトラウマ記憶です。

まるで、引き出しの中に、必要か不必要なのかも分類されずに、そのまま雑然とつっこまれた物たちのように。それは見ると絶望的な気持ちになる記憶でもあります。




トラウマのセラピーでは、繰り返しトラウマ記憶を話すことが求められます。そうすることによって、「記憶の貯め方」(それも、今まで知らなかった新しい貯め方)の練習をしているのです。

すなわち、セラピーで求められているのは私たちを「治療」や「改善」、「回復」することではなくて、実際のトラウマ記憶を使って、記憶の新しい貯め方のスキルを鍛錬して、より上手になっていくことです。


新しい貯め方が上手になると、良いこともあります。

私たちはこれからまたトラウマ的な出来事に晒されるかもしれません。どんな人でも、生老病死な人生の中で、今後二度とトラウマ的な出来事に遭わないとは断言できないでしょう。次に何かある時、その時に、今練習している記憶の貯め方がほんのちょっぴりかもしれませんが、役に立つのだと思います。

トラウマのセラピーは過去からの回復だけではなく、私たちのこれからの人生の味方になってくれるものなのです。



ではまた!

サードプレイストラウマPE

メメント・モリ

こんにちは。

飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。


物心ついた頃から死が怖くて、両親に「死ぬとどうなるの」と質問しては「死ぬと何にもなくなるんだよ」という至極正論かもしれない、しかし、幼い娘の気持ちをスルーした答えが返ってくるたびに、死の恐怖に慄いている子どもでした。

小学校に入ると両親に放ったのと同様の質問をお友だちにぶつけては、気味悪がられるようになったので、しばし自分の中にある、死について話したいという衝動(怖いからこその衝動)は封印するしかありませんでした。

思春期に入って「メメント・モリ(死を思え)」という警句を知って、どうやらどこの世界や時代にも死について考える人がいるのだと知り、なるほどと思いましたが、メメント・モリという言葉には、どこか叱られているような雰囲気があって、ちゃんとメメント・モリできていなくてすいません、みたいな、正答をみつけられないデキの悪い生徒みたいな気持ちにもさせられたものです。



そんな中、結構なオトナになった私は、お寺のお坊さんが主催する「死の体験旅行®︎」というワークショップに参加したのでした。

新聞記事によると、このワークショップでは自分の死を体験する中で、自分の大切にしているものや人を手放していく、ということをするようです。参加者のインタビューでは「最後に夫が残るかと思ったけど、飼犬が残った」と言っている人がいたり、「自分にとって意外な結果となった」と話す人もいて、私には一体何が起きるのか、興味を持ったのでした。


さて、会場につきました。私を含めて12人くらいの老若男女とガイド役のお坊さんがいます。

「死の体験旅行®︎」では、自分が死に向かい、そして死んでいく、というプロセスの体験をします。



そのワークでは、自分が死に行く途中で、多くの物、人や記憶とお別れし、最後には全部とお別れしなければなりません。私はその体験の過程で生じる辛さと悲しさで、涙を流しました。どれもこれも手放したくないものだったのです。

しかしワークが終わって、お部屋にもどってくると、私は生きていて(当たり前ですが)、それらはなくなったりせずにちゃんと私の中にあることがわかりました。私は、自分の大切なものや人が今ここにきちんと在ることが改めて認められて、嬉しく、ほっとした気持ちになりました。

それは、「死を考えることは、生を考えることだ」という昔ながらのコトバがやさしく腑に落ちた瞬間でした。


トラウマの中で人々は恐怖と無力感を感じ、多くのもの、または、全てのものを失うような体験をします。セラピーの中でそれに向き合う時には、辛さ、怒りや悲しみとは無縁ではいられません。多くの人は涙や汗を流し、息も絶えだえになりそれに向き合いますが、全てのセッションを終えたあとは、なんだかさっぱりしたような穏やかなお顔をされています。




子どもの頃に感じていた死の恐怖というのは、私にとってトラウマだったのでしょう。そして、死の体験旅行という安全な「セラピー」によって、それに向き合うことができ、癒しがもたらされたのでした。


帰り道、涼しくなってきた夜風が私を優しく撫でるように吹いています。


良い夜でした。




ではまた!

トラウマPE心理療法

【複雑性PTSD】のトラウマ焦点化心理療法【PE】

こんにちは。

お盆の後も暑さが残る、飯田橋のカウンセリング・オフィス、サードプレイスのナカヤマ です。

今日は、前回の続きです。

「フラクタル」という言葉を聞いたことがありますか。

フラクタル構造とは、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念で、図形の部分が全体の自己相似(再帰)になっているもののことを指します。

例えば、「木」はフラクタル構造です。

木は、たくさんの葉っぱが集まっており、それによっていわゆる木らしい形を成しています。木から葉っぱ一枚を手にとって、その形をよく観察してみると、それは木の形に似ていることがわかります。葉っぱの茎部分は木の幹にあたるところで、葉脈は枝のように見えるでしょう。

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すなわち、一部(葉)は全体(木)を模倣しているわけです。

海岸線などの形状も代表的なフラクタル構造の例として知られていますが、このような構造は自然界に多くみられるものです。

トラウマ記憶もこのフラクタル構造を持っていると考えています。

特に、虐待やDVなどの長期・複雑型のトラウマは、たくさんのトラウマ記憶の集まりです。このような記憶は情報量が膨大なものですから、そのことについて考えたり整理しようとすることは途方もないように感じられたり、様々な感情に圧倒されてしまったりするものです。しかし、その中のある一つのトラウマエピソードを取り出して、それを仔細に観察し、理解していくことで、トラウマ全体についても理解ができると考えています。

というのも、フラクタル構造によって、ある一つのトラウマエピソード(インデックス・トラウマ、といいます)の中にはトラウマ全体を反映する、その人の感情、身体の感覚、認知(考え)、またはその記憶に関わるテーマがほぼ全て含まれているからです。

PEでは、インデックス・トラウマについて、限られた時間の枠の中だからこそ発生する、その人が持つ最大限の集中力によって徹底的に観察し、多角的に理解をすすめます(さながら、木から葉っぱを取り出し、仔細に顕微鏡で調べるように)。そうして得られた深い洞察がトラウマ記憶全体を整理し、処理することに役立つのです。

PEの開発者であるフォア先生は「すべてのトラウマは複雑だ」と言いました。そう言える理由は「トラウマ体験が一回だけ、の人はほとんどいないから」であり、これは様々な研究によって裏付けされています。

そうなると、トラウマ記憶を単回か複数回かで分けることは、もしかしたらそんなに意味がないことなのかもしれません。トラウマ記憶に限らず、人生だって同じテーマが何度も何度も立ち現れてくるものです。

すべてを見ようとするのではなく、ある大切な一部分としっかり向き合うことで、実はとても多くのことが学べるのだと思います。

そういえば、日本にも、「一事が万事」ということわざがありましたね。

●でも、何よりも大事なのは自分のタイミング☞【いつ心理療法を受けるのか】自分で決めることができる

ではまた!

サードプレイス

トラウマPE

【赤ずきん】のトラウマ

こんにちは。

飯田橋にあるカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。

 

人によっても好みが分かれるところでしょうが、私は書き込みした本がどうも苦手です。

古本であっても、本を開いたときに、そこここに線が引いてあったり、コメントらしき書き込みがあったりするのを発見すると、本文よりもそっちに気を取られてしまうことが癪にさわります。

線が引いてある箇所の文言を読んで、どうしてここに線を引いたんだろうと考え、また線も波線だったり、二重線だったり(たまに赤線、みたいに色を変えているヤカラまでいます)バラエティに富んでいるものですから、どうして線の種類に違いをつけたんだろうとまたしばし考え、そしてさっぱりわからずにあきらめるのです。

書き込みに関してはもっと悲惨です。共感の持てる書き込みはない、と言い切ってもいいほどで(その場の個人的な覚書やコメントでしょうから当然です)、書いた人には意味のある、でも私にとっては何の意味もなさない書き込みが目に入ると、どうしてもムキー!となってしまうのです。

私はなんというか虚心坦懐、にして物語と向き合いたいだけなのですが。

 

とある古本屋でみつけた『赤ずきん』の本は惨憺たる状態でした。

「むかしむかしあるところに赤ずきんちゃん、と呼ばれる女の子がいました」と、その本ははじまっていました。

でも、「その女の子は赤い頭巾がとても似合っていたからです」という文章の隣に

 

 

 

 

 

 

 

いい気になるな

という書き込みがあったのです。その文字に重ねるように

 

 

そんな目立つ頭巾をかぶっていたから恐ろしい事件が起きたんだぞ。

いい気になっていたお前の

 

責任だ

 

 

と赤い字で書かれています。

他の場面では

 

 

余計なことをオオカミにしゃべるな。お前の不注意の責任をとれ

能なし

バカ

 

人殺し

ひ と ご ろ し

 

という文字でページがうめつくされています。

本を読み進めていくにつれ、書き込みやら線はどんどん多くなってきて、最後のほうはほとんどそれらに埋め尽くされるようになっていました。ページも何ページか破れたり、バラバラにされているようです。

そんなわけで、その「赤ずきん」の本は、赤ずきんがオオカミに食べられるところで終わっていました。

その先は書き込みや線、折ジワ、インクのにじみでまるで読み進めることができなかったのです。

 

トラウマの記憶は、書き込みや線がところ狭しとせめぎ合っているような本のようなものです。書き込みの大半は太字で書いてあり、とても批判的な内容です。また、あちこちに意味ありげな線が引いてある(かえってそれで意味がわからなくなるような)ことで、読み進む気力を失わせる本になっています。

 

そんなトラウマ記憶と向き合うために、PE(持続エクスポージャー療法)では、「想像エクスポージャー」という手段を用います。

向き合う、というとなんだか大仰にきこえるかもしれませんが、どちらかというと書き込みや線などで読みにくくなっている物語を、実際はどんなことがあったのか、虚心坦懐にして、丁寧に読み進んでいく作業に似ています。

書き込みや線、ページの汚れに気を取られずに、内容をそのまま読み進めていくと、まだ小さい子どもであった赤ずきんにおばあさんの役に立ちたいという純粋な気持ちがあったことや、たしかに冷血なオオカミに一度は食べられて怖い思いをしましたが、猟師がちゃんと助けてくれたこと、そしておばあさんと無事を喜び合ったことが書かれていたとわかるでしょう。

大切なのは、その本を取って、ページを開く勇気です。

 

 

 

ちなみに、多くの赤ずきんたちは、このオオカミ事件の後、赤い頭巾をかぶるのをやめてしまうのですが、再び赤い頭巾をかぶれるようなるには「現実エクスポージャー」が助けになってくれます。

 

●現実エクスポージャーって☞【PE】そのネーミングセンスがいかがなものか問題

●PEの情動処理理論☞【モヤモヤした感じ】持続エクスポージャー療法の理論

●トラウマ記憶は「怖い映画」にも例えられる☞【フォア先生】トラウマストーリーを何度も話すことについて、有無を言わせない切り口

 

ではまた!

サードプレイス

トラウマ複雑性PTSDPE

【トラウマ後の症状】アンテナが全開

こんにちは。

飯田橋のカウンセリング・オフィス、サードプレイスのナカヤマです。

 

PTSDは、精神科で診断されるもので、「精神の症状」とみなされています(それはもちろん間違いありません)。でも、多くの人はPTSDを「身体の症状」として感じるとも言っていて、そんな訳で、今日は「過覚醒」の話です。

 

「過覚醒」はPTSDの4つの症状のうちの一つです。

この症状について語るために、太古の昔にまで遡りたいと思います。

すなわち、私たちが丸腰でサバンナみたいなところをてくてくと歩いていた頃の話です。

私たちは足も遅いし、身を守るための頑丈な牙や鋭い爪はおろか、分厚い皮膚も持っていないので、上位捕食者にとっては絶好の獲物でした。

ある日の出来事です。いつものように歩いていたところ、草陰からトラが飛び出してきました。あなたは死ぬほど驚きましたが、トラの鋭い爪があなたの背中をケサギリにする、すんでのところで身をかわし、脱兎のごとくその場から逃がれます。

このような危機的状況に置かれると、あなたの血中にアドレナリンが放出されます。アドレナリンの放出によって、あなたは長い時間疲れを感じることなく走り続けられます。トラの爪がかすった傷口からの出血は最小限に抑えられて、痛みも感じにくくなります。そのようにしてアドレナリンは生き延びるための余分なエネルギーを与えてくれるのです。

身体が与えてくれたアドレナリンと幸運に助けられて、あなたは安全なところまで逃げおおせることができました。

その日はしかし、当然ながら眠ることができません。「本当に危なかった」と何度も考えます。少しの物音にも敏感になって、飛び上がったり、その度にどっと汗をかいたり、心臓がはちきれそうになります。喉のあたりが苦しくなって、息がしづらい感じになります。身体を緊張させて、トラの気配に何度も耳をそばだてます。

このような警戒態勢は、実際に危険な場面では役立つものです。トラが再びやって来れば、素早く気がつくことができるので、逃げ出せる確率が高まるでしょう。私たちの身体は本当によくできていて、自分が生き延びるための機能がきちんと備わっているのです。

 

現代ではトラに襲われることはあまりありませんが、かわりに暴漢に襲われることがあるし、配偶者に襲われたり、親に襲われたりもします。そしてその時、私たちの身体は太古の昔と同じように、生き物として当たり前な反応します。すなわちアドレナリン放出とともに警戒心が尋常ではないレベルに高まるのです。しかし、それが必要以上に長く続くのが、PTSDの「過覚醒」という身体の症状です。

ピンポーンという音で飛び上がるほど驚いたり、テレビの音がうるさく感じたり、光がまぶしすぎるように感じられたりします。まるで外界に向かってたくさんのアンテナが向いていて、些細な音や光でもそのアンテナに引っ掛かってしまうようです。一方、そのアンテナが向かっているのは外側だけで、自分の内側には向けられないので、なにかに集中したり、自分の考えをまとめたりすることが難しくなります。考えをまとめる、といっても、何かすごく高尚なことではなく、例えばドラッグストアに並んでいるシャンプーの中でどれがいいのか決める、みたいなことが難しくなるのです。

過覚醒が強い人は、ピリピリして「尖った」雰囲気をまとっているようにみえます。実際、キレやすかったり、イライラしているような態度をとることもあります。

でも、それは毛を逆立てっぱなしなハリネズミに似て、外側にハリをむける一方で、その内面には大きな怯えを抱えています。その人にとっては世界は危険で怖いところです。いつ捕食者が現れるか、常に自分を守るために必死に気を張らなければならず、そしてその状態が「身体の慣い」になっているのです。

 

ずいぶん前に、DV被害から逃げてきた母子のインタビューをしたときのことです。当時小学5年生ほどだった男の子に「なんでも叶うとしたら、今、何がほしいですか」と問うと、彼はしばらく考えた後、

「集中力がほしい」と答えました。

「集中力がほしい」。小学生の男の子の言葉としては、切なすぎて、当時の私が彼を安心させてあげられる言葉を一言も発せなかったことを今でも悔やんでいます。

 

 

●PTSDの4つの症状のうちの一つ、侵入症状☞【トラウマ後の症状】フラッシュ・バック

●PTSDの4つの症状のうちの一つ、回避症状☞【トラウマ後の症状】人の中にいても一人

 

こちらもどうぞ

●DVについて☞【PTSD】と【複雑性PTSD】

●子ども時代のトラウマ☞【複雑性PTSD】診断がつく、ということは治療法があるということです

 

 

ではまた!

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